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韓国の元慰安婦が南京大虐殺の生存者と対面…涙の抱擁=中国報道

非政府組織(NGO)「ピースボート」の乗客がこのほど中国南京市の「南京大虐殺紀念館」を訪問した。乗客の1人で旧日本軍の元従軍慰安婦だったと主張する女性と、南京大虐殺の犠牲者と主張する女性が対面した。中国メディアの現代快報が26日付で報じた。

  1983年に設立した民間組織「ピースボート」はこれまでに80回以上の国際交流を実施している。今回、南京大虐殺紀念館を訪問したのは日本や韓国、米国などから参加した乗客たちだ。

  ピースボートの関係者は、「われわれは南京大虐殺の犠牲者の“人数”について言い争っているが、こうした言い争いは不要だ。たとえ犠牲者が1人であってもそれは永遠の痛みだからだ」と述べた。また、別の関係者は「南京大虐殺は日本人が向かい合う必要のある歴史の1つだ。日本人は自らの歴史を正視する必要がある」と語った。

  報道によれば、南京大虐殺の犠牲者と主張する中国人女性の楊翠英さんは13歳の時に父親をはじめ家族が旧日本軍による虐殺にあったという。

  また、旧日本軍の元従軍慰安婦だったと主張する韓国人女性の李容洙さんは16歳の時に旧日本軍によって台湾へ連行され、元従軍慰安婦にされたと主張している。李容洙さんは「わずかな食べ物で命をつなぎながら、連日何度も暴行を受けた当時は犬以下の生活だった。日本政府は“すでに謝罪した”と嘘(うそ)を繰り返すが、まだ謝罪を受けていない」とむせび泣いた。

  報道によれば、南京大虐殺紀念館で対面した楊翠英さんと李容洙さんは抱擁しながら涙を流し、互い慰め合ったという。
2013/10/26サーチナ
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=1026&f=national_1026_018.shtml




>非政府組織(NGO)「ピースボート」の乗客がこのほど中国南京市の「南京大虐殺紀念館」を訪問した。乗客の1人で旧日本軍の元従軍慰安婦だったと主張する女性と、南京大虐殺の犠牲者と主張する女性が対面した。

これでは反日トリオ「南京大虐殺紀念館」に結集じゃないか!

1983年に「ピースボート」を設立したのは、民主党の辻元清美ら反日活動家です。


辻元清美の内縁の夫である北川明は、元日本赤軍のメンバー

2010年に「ピースボート」は、ソマリア沖の海賊対策での海上自衛隊派遣に反対しました。

それなのに「ピースボート」は、資金集めの世界一周航海ツアー中に、ソマリア沖・アデン湾を航行中、海上自衛隊の護衛を受けました。

反日捏造歴史記念館である「南京大虐殺紀念館」は、日本の国賊売国奴により建設されました。



南京大虐殺を捏造した朝日新聞と協力した日本社会党

日本は中国を安定した国にしたかった


南京占領2日目の写真
1937年12月15日、南京城内難民区、
佐藤振壽・東京日々新聞(現在の毎日新聞)カメラマン撮影
参考:昭和12(1937)年12月13日が南京陥落


(朝日新聞)南京占領5日目の写真(第1回の写真特集)
タイトルは「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」
「17日河村特派員撮影」松井軍司令官を先頭に入城式があった日

占領5日目に早くも露天商が出て、兵隊が銃も持たないで買い物をしている。
(1)兵隊さんの買い物(右)
(2)皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民達。(中上)
(3)皇軍に保護される避難民の群。(中下)
(4)和やかな床屋さん風景。(左)


(朝日新聞)昭和12(1937)12月25日(第3回の写真特集)
撮影は23日頃(南京占領10日目頃の写真)  タイトルは「南京は微笑む《城内点描》」

(1)玩具の戦車で子供達と遊ぶ兵隊さん(南京中山路にて)(右上)
(2)戦火収まれば壊れた馬車も子供達の楽しい遊び場だ(南京住宅街にて)(左上)
(3)皇軍衛生班の活躍に結ばれて行く日支親善(難民避難区にて)(右下)
(4)は、平和の光をたたえて支那人教会の庭からもれる賛美歌(南京寧海路にて)(左下)
(林特派員撮影)


南京大虐殺 を「事実」だと誤解してはいませんか?

 みなさまの中には、
いわゆる、中国共産党が盛んに喧伝して来た「南京大虐殺」について「実際に有った」。
または、三十万人の大虐殺は信じられないが、「それに類する事件はあった」と。

あるいは、南京大虐殺は元々存在しなかった、と
明確に認識しておられる方もおられることかと思います。
それぞれに、認識が違う。そうした事例は、何も"南京事件"に限ったことではなく、
いわゆる、他の対日毀損に対しても、同様に分かれているケースもあるやに伺っております。

 しかし、個々の認識はあくまで「認識」であり、
それが「事実」とは異なる「認識」であれば、
直ちに、それまでの「認識」の修正をした方が良い。
これが物事の認識に不可欠な筋道です。

「認識」はいくつもあり得るとしても、「事実」は一つしか存在していないからです。
また、事柄が「事実」か、否か。判別が困難な場合は、事の次第や時系列的に洗い直し、
客観的に、その経緯から「正」「誤」をもとに判別する方法が有効です。

以降の事例について、その視点から指摘してまいります。
「南京大虐殺」については、そもそも、
南京での局地戦は存在しましたが、「南京大虐殺」は存在しなかった。

これが唯一の「事実」です。
単に、「個」の認識レベルに終わるものではなく、紛れもない「事実」です。

 事の経緯はこうです。
昭和四十七年(一九七二年)の「日中国交回復」に先立つ昭和四十五年(一九七〇 年)に、
当時の朝日新聞社長の広岡知男氏の指示で、
中国共産党の「文化大革命」礼賛記事を紙面に掲載した。

中国共産党の機関紙「人民網(人民日報)」との提携開始もこの時期と思われます。
また、同時期に、公明党訪中団と中国共産党による
「共同声明」発行とも符合している点が興味深い点の一つと謂えます。

朝日新聞は、この文革礼賛記事を皮切りとして、翌年 昭和四十六年(一九七一 年)から
「南京大虐殺」という虚構宣伝のキャンペーンを開始したのです。

 同紙記者の本多勝一氏による「中国への旅」を連載し、その虚構は広がりました。

この件の朝日新聞は、メディアとして在るべき検証を悉(ことごと)く省いて報道し、
当時は、新聞は正確たり得る情報源と信頼していた日本国民に対し、
あらぬ「罪悪感」の一大流布に成功したと謂えます。

無論、ネットがある時代ではなく、当時の日本国民にとって新聞やテレビは、
今にもまして影響力を持つ情報源であったことは謂うまでもありません。

いわば、「まさか新聞が嘘を書かないだろう」、
その善意の認識が今よりなおも支配的だった時期でのことです。
その時代に、新聞を疑えるほどの視線を成熟させることは不可能であり、
その社会的な「盲点」を衝くかのようにして、これらの虚構がまたたく間に広まったのです。

 朝日新聞の大報道の「真」「偽」や如何に。
そこで、経緯から「正」「誤」を判別すれば、昭和五十三年(一九七八年)に、
日本の中学校教科書に初めて「南京大虐殺」が記述されるに至っていますが、
しかし、同年までの中華人民共和国の教科書には「南京大虐殺」の記載は無かった。

もっと指摘すれば、
事件があったとされる一九三七年から実に四十二年間という長期間にわたって
「中共の教科書」にさえ「南京大虐殺」は記載されていなかったのであり、
はるかに歳月を経たこの年になって、
朝日新聞の捏造報道をもとに「日本の教科書」が先に載せたことになります。

 「南京大虐殺」が仮初(かりそ)めにも事実であるとしたら、
中華人民共和国本来の特性からすれば、もっと早い時期から、
中国共産党政府が騒ぎ立てていても不自然ではなかったはずです。
この経緯をもとに淡々と検証すれば、その背景には、これなら「使える」と言わんばかりの、
上述の朝日新聞などを通じた対日プロパガンダの「先行」があり、

それ自体が、
むしろ、件の虚構が、「戦後」における隷中メディアが支那の尖兵となった
捏造報道の証左と指摘できます。

 現在でも、「南京大虐殺」を肯定する方々にその理由を尋ねれば、
その中には、「テレビで言ってたから」、「先生が言っていたから」、
「教科書に書いてあるから」との理由が多いと思いますが。

 それらの人々個々の「認識」レベルを拝察すれば、
あるいは、「南京大虐殺」は"事実"なのかも知れませんが、事の「真」「偽」の
根拠は「それだけなのか?」とお尋ねしたい。

どうして、「テレビで言うようになった」のか。なぜ、「先生が言うようになった」のか。
また、なぜ、「教科書に載るようになったのか」と。
その淵源に遡及(そきゅう)して、事の次第を調べ上げ、
むしろ、客観的な検証を重々加える必要があるからです。

 以上から、時系列的にも、南京事件は「一九七一 年」の
「朝日新聞」の紙面を端緒として造り出された虚構であることは明白です。

戦後の約三年間に、
数千万人にもおよぶ自国民の命を奪った中国共産党と国民党軍の内戦で命を落とした犠牲者の
遺骨まで掘り出しては、「日本軍に虐殺された犠牲者」であるかのように宣伝する、
いわゆる「記念館」方式のプロパガンダがこれに該当します。
動画: 朝日が作った歴史

南京大虐殺紀念館を作ったのは日本社会党(現在の民主党)
日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、
当館を建設するよう求めた。中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため、
田辺は総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。

3000万円の資金のうち建設費は870万円で、
余った資金は共産党関係者で分けたという。また記念館の設計は日本人が手がけた。


▲ 南京虐殺記念館に献花する「菅直人」氏
南京大虐殺記念館に献花をした議員
・海部俊樹 ・村山富市 ・野中広務 ・古賀誠 ・田邉誠 ・菅直人
ウィキペディア: 南京大虐殺紀念館

朝日新聞時代の「本多勝一」氏の捏造写真

著書『中国の日本軍』において、「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。
強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけて写真を掲載。

しかしこの写真は『アサヒグラフ』昭和12年(1937年)11月10日号に掲載された
「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より
部落へかえる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により指摘された。
この写真は南京大虐殺記念館でも長い間、
日本の残虐行為の写真として展示されていたが、信憑性に乏しいことから展示を取りやめている

また、『本多勝一全集14』の『中国の旅(南京編)』では「ヤギや鶏などの家畜は、
すべて戦利品として日本軍に略奪された(写真;南京市提供)」とキャプションをつけて写真を掲載。

しかしこの写真は、『朝日版支那事変画報』にて掲載された
「民家で買い込んだ鶏を首にぶら下げて前進する兵士」という
日本側が撮った写真であったことが示されている。


■『月刊中国』鳴霞・主幹編集長の南京問題の告白

以下、『月刊中国』を一部転載させて戴きます。

「中共では1979年まで南京大虐殺30万人など無かった」
1979年版の全日制中学校歴史教科書に突然、南京大虐殺が登場しました。

1985年に、日本の国会議員などが数千万円の資金援助をして、
南京大虐殺記念館を建てて「日本軍が30万人虐殺」したという虚構を宣伝する拠点としました。

中共政権は、1980年代になって初めて、
「国民党軍と日本軍が戦争していた」という抗日戦争の歴史を認めました。
国民党は台北の「国軍記念館」の中に、南京大虐殺30万人という宣伝展示をしました。

この記念館は昨年、展示入れ替えと改良工事をしていたが、
今でも「日本軍による南京大虐殺30万人」という虚構が宣伝展示されているかどうか。

前出の劉燕軍の「抗日戦争研究第4期」の中の「南京大虐殺の歴史記録」には、
「国民党は我々労働者階級の闘争意欲を弱体化させ、
迫害され死去した労働者兄弟たちは、未だに冤罪の汚名を着せられている。
中国人の階級闘争の真の敵は国民党政府だった」と指摘しているのです。

50歳前後の中国人なら知っているだろうが、
抗日戦争の教育映画は「地雷戦」「鉄道遊撃隊」などでした。
しかし当時の抗日映画の中には、「南京大虐殺」などと言うものは無かったのです。

1960年代に毛沢東が2千万~3千万人の国民を餓死させた事実は教科書には掲載せず、
日中国交正常化までは日本人のことを「日本鬼子」と罵倒していました。

1972年9月に日中国交が結ばれ、
中共政府は南京大虐殺記念館を建てて「日本軍が30万人を虐殺した」と宣伝したが、
これは毛沢東の文化大革命で7千万~8千万人が中共に虐殺されたことをすり替えるためのものだった。

中共としては、毛沢東の文化大革命の10年間に、経済発展が停止して国民生活は破綻していた。

最も生活が困っている時に援助の手を差し伸べたのが日本の政治家だったが、
日本社会党(現在の民主党)は数千万円を寄付し、そして南京大虐殺記念館は建てられた。
 
今も続く反日宣伝の虚構は、
日本社会党の議員が援助したものであり、日本人の敵は日本の議員だったという訳である。

1980年代には、中国では「日本人と中国人は2千年前から友好交流しており、
歴史や文化は酷似している」と教えられた。 
日本からの経済援助、人材教育、技術支援なども活発化しており、
1982年には筆者・鳴霞も日本に永住する為に来日しました。

来日する前に勤務していた軍事会社の党支部書記は、「鳴霞よ、日本には共産党青年団の組織は無い。
だからお前は共産党青年団宣伝幹部の職を辞さねばならない」と言われました。 

また、「党はお前を一生懸命に勉強させ、
軍事会社から資金を出して市内の日本科学技術大学校に入学させ日本語を勉強させた。
日本に行ったら、日中友好事業を推進せよ」と言われました。

私が中国にいる時に受けた全ての教育の中で、「南京大虐殺」 「慰安婦」 「毒ガス」などは無かった。

1979年までの教科書、新聞、雑誌やマスコミ報道にも、それらは無かった。

日本からの資金援助で「反日運動」が推進されるようになった1984年には、
南京にいる老人を集めて「南京大虐殺被害者」を作り始めた。でっち上げた被害者は1756人に上った。

それを根拠にして「侵略日軍南京大屠殺史料」 「侵華日軍南京大屠殺当案」 
「日軍侵華暴行南京大屠殺」などの本が一気に出版された。
毛沢東が政権にあった時、多くの本が出版されたが、南京大虐殺を書いたものは無い。と言われた。
動画: 月刊「中国」の鳴霞氏が語る中国の正体!

『月刊中国』(毎月1日発行)発行人編集;鳴霞
FAX;0795-46-1880
編集長が満州人の鳴霞(めいか)氏。





南京大虐殺記念館に献花する菅直人


南京大虐殺記念館の旧日本軍の被害者像に手を触れ、「かわいそうなことをしてしまった」と語りかけて黙とうをした鳩山由紀夫

【南京大虐殺記念館に献花をした議員】

海部俊樹、田邊誠、村山富市、野中広務(1998年)、菅直人(2002年)、古賀誠(2006年)、鳩山由紀夫(2013年)


>報道によれば、南京大虐殺の犠牲者と主張する中国人女性の楊翠英さんは13歳の時に父親をはじめ家族が旧日本軍による虐殺にあったという。


年齢が変っているじゃないか!

2009年に楊翠英は、「私は1925年生まれで当時12才でした。」と証言しました。



楊翠英さんの証言(1925年生まれ)
 
 平和を愛する友人の皆さん、今日はここで、1937年の事実を話したいと思います。私は1925年生まれで当時12才でした。いま84才になっています。あれから72年もたったので、今のところ中国と日本は友好的につきあっていますが、72年前南京市民は30万人を超えた人々が非常に残酷な手段で殺されています。その当時私は、街角や道路でたくさんの死体をこの目で見ました。この残虐なことをした兵隊たちは、おそらくいま死んでこの世にいないと思いますが、非常に惨いことでした。
 まず説明しておきたいことは、今から日本人の「悪さ」を話しますが、当時の日本兵のことを話すので、現在の日本人が悪いということではありません。ぜひご了承をお願いしたいです。
 
 当時、私たちは許府巷というところに住んでいました。家族構成は、祖父、父方の大叔父さん(祖父の弟)、父母、私、2人の弟、1人の妹の8人家族でした。家の仕事は祖父と父が中心になって野菜などを作っていました。母も手伝っていて、私も12歳でしたが、時々野菜を取って、売るためにごみを取り除いたりの整理をする手伝いをしていました。野良仕事としては、父が水をかついでまき、母が雑草を取っていました。野菜を収穫したら整理しないといけなかったので、たとえばニラでも、長ネギや小ネギでも、枯れた葉を取ったりきれいにして売り場へ持って行くから、そういった手伝いを私は随分しました。
 私の家族で殺されたのは、父、母方のおじさんと父方の祖父と1才だった弟の4人が殺されました。父が殺されて1週間後母は出産して赤ちゃんができました。父や祖父が殺されていたので、生活できなくなりました。その上に母は、父と1才の弟を亡くしたので出産後も泣きくらしてついに目が見えなくなりました。だから生活がたたなくなり、くらしは12才だった私にかかってきました。
 思い出すと非常に残酷で忘れられないことばかりでした。日本兵が非常に残酷だという事実を伝えるのでよろしくお願いしたいです。
 私のところは12月ごろに難民区に行きました。前に別の場で証言したときに、一人の外国人が「安全区があった」といわれましたが、私の記憶では安全区はなく難民区しかなかったと思います。(注:「南京安全区国際委員会」が南京にも安全区的な区域をつくり一般的には「難民区」と称した。)その当時は日本兵がやってくる前に、金持ちの人は全部南京城の外へ脱出しました。金のない人、貧乏人は行けるところがないので残るしかなかったのです。でも私たち一家はよく覚えていませんが、当時、しきりに日本兵が来るぞといわれていたので12月10日前後に難民区に入ったと思います。大方巷(注:ダーファンシャン:難民区の北部にあり朝日新聞社もあった場所)というところに行きました。
 私が一番最初に日本兵を見たのは12月13日でした。私達は大方巷の傅佐路14号のところでたくさんの難民が一緒に生活していました。蒋介石の軍隊が何も抵抗せず、日本兵が簡単に南京の城内に入ってきました。その日はたくさんの日本兵が、私達の住む難民区へやってきました。日本の兵士は銃をもっていました。銃の先には銃剣がついていて、位の高いらしい兵士は長い刀をもっていました。たくさんの日本兵が来たので怖いという感じしかありませんでした。避難している私の家に来たのはたった2人の日本兵だけでした。
 
 しかし、入ってきた日本兵がいきなり銃剣で父を刺しました。父は何回も刺されるたびに叫び声をあげていました。そばに私がいたために父は抗い突き殺されてしまったのです。私も父のそばにいたので、日本兵に殴られて耳が聞こえなくなりました。私は1才の弟をだっこしていました。父も何回となく刺され、台尻で殴られたので、叫び声も聞こえたし、大きな怖い音がするので1才の弟も泣き出しました。日本兵は弟を私から奪って地面に投げて、大きな革靴をはいた足で踏んで1才の弟を踏み殺したのです。
 難民区は狭いところだから、母方のおじ一家も一緒に住んでいました。父方の祖父、母方のおじさんもその部屋で、突き殺されたり、歩兵銃の台尻で殴られたり、全部そこで殺されました。父が刺し殺されたとき、私も怖くて大きな声を上げて泣いていました。いつもそんなことを思い出しては、涙がいつまでもとまりません。
 あの当時(私達家族4人を)殺した兵たちとは今日は会えないですよね。
 大方巷の隣には大きな池がありました。日本兵がたくさんの人を殺したのでこの池の中も死体でいっぱいでした。その後、紅卍字会などの慈善団体が死体を収集して池の中から引き出しました。池のほとりにあるたくさんの死体が見えました。紅卍会が死体を収集したので埋葬はできませんでした。北陰陽営では大きな穴を掘って埋葬したと聞いています。
 難民区には大きな部屋があるはずがなく、4~5世帯が一つの部屋の中で生活していましたが、みんな地面に藁とかを敷いて、そのまま寝ました。被害を受けたのは私たち一家だけではなく、たくさんの家が被害を受けました。
 大方巷にいると食べ物がすぐなくなってしまいました。みなさんが(聞き取りのために)今いる南京大学は当時金陵大学でした。南京師範大学は当時金陵女子大学といわれていました。難民区の金陵女子大学には一人のアメリカ人(注:ミニー・ヴォートリン、中国名は華群)がいました。彼女が、食べ物のない人たちに、「家族で4人が殺されている。今何人で生活している」と詳しく登録すると、カードをくれました。このカードによって、金陵女子大学の後ろの空き地で毎日おかゆの供給がありました。朝10時と午後4時の2回供給してくれたので、バケツをもって行きました。5人で生活していましたから、1人あたり小さなお椀1杯分のおかゆがもらえました。1カ月間ほど供給があったと思います。
 難民区では4世帯、5世帯で1つの部屋を借りて生活していました。しかし、難民区といっても家賃を払わなければならないところに住んでいたので、どうしても家賃が払えなくなり、許府巷までもどりました。
 母も目が見えなくなって働けず、妹と2人の弟もいるので食べ物に困るようになりました。私しか働けるものがいませんでした。布団や服を作っている日本人の工場が、ホテルの向かい側のところにありました。私はその工場に勤め始めました。仕事としては、シーツやふとんの洗濯とか、ときには流れ作業で服を縫う仕事をやっていました。勤務時間は、午前7時~12時、午後1時~7時の1日11時間働いて、1日に半斤(注:約250グラム)の米と干し芋(注:さつまいもを薄く切って干したもの)半斤が報酬でした。この工場では長く働きました。1945年8月15日午後4時ごろ、働いている部屋に突然一人の上司が入ってきて「みんな会議ですよ」とみんなを呼び庭に集めました。普段は仕事しかないから呼び出されてびっくりしました。庭で放送を聞きました。放送の内容は非常に簡単で「日本が今日降伏した。中国人は日本人を殴ってはいけない」という内容でした。中国は抗日戦争に勝ったということでした。8月15日から蒋介石の新陸軍が次々と南京へ入ってきて、みんな私たちの住んでいるところに入ってきました。数カ月後、その軍隊はいなくなり、1949年に解放されて新しい中国ができました。
 私だけではなく、南京ではほとんどの人がひどい目にあっています。団の中には先生が多いと聞いていますが、ぜひ私がここで話したことを日本でたくさんの子どもたちに伝えてください。子どもたちには、歴史を知った上で、しっかりと勉強して、国の建設のために頑張ってもらいたいです。特に子どもたちが大きくなったら、平和のために努力してもらいたい。というのは、本当に戦争というものがいかに残酷か、  
 この戦争で家族を4人も亡くして、国もなくなったので、戦争がなければいかに美しい世界ができるかということを私は子どもたちに知ってほしいのです。

《以下は質問に答える形で聞き取りました》
 1985年に紀念館が開館してから毎年の清明節には必ず館に行っています。紀念館には(殺された人の名前が記されている)泣いている壁がありました。私の殺された家族の名前もそこにありました。名前は、父:楊学文(34才だと思う。母は32才だった)、父方の祖父:楊世培、母方のおじ:楊賢営、弟:毛娃(正式な名前はない)。最後の弟は母乳も出ないし生まれたばかりで餓死しました。
 工場でもらった半斤の米は私一人でも足りない。でもなかったときよりもましだでした。干芋を茹でて細かくして、米を少し入れて、外で摘んだ野草を入れて、お粥を作って食べました。少なかったけれど、なかったときよりもましでした。私が働きに行かないと何もなかったのです。本当につらい生活でした。私の仕事で少し食料をもらってきて一家の食べ物にしていました。    
 もちろん仕事は非常に厳しかったです。監視もいて、私は殴られたことがありませんが、他の人が殴られているのを見ました。私は家族のことを考えて、もし仕事を失ったら大変なことになるので、しっかりと仕事に没頭しました。疲れて眠いときももちろんありましたが、怖いので緊張感があり、しっかりと仕事をするしかなかったです。2人の日本人が監視をしていた。便所札はなかったですが、手を上げて合図し、報告が必要でした。2人で回って監視しているから、便所に行って、また10分経って行くというようなことは絶対できませんでした。頻繁に手を挙げると殴られますが、時間が長く経って手を挙げて便所に行くのは大丈夫でした。工場の名前は覚えていませんが、場所は中山北路にありました。
 日本語は覚えていませんが、ひらがなはすべて覚えています。「あいうえお かきくけこ」毎日、退勤のときボディーチェックをされました。日本人の年取った女性が、薄着の時は手で触って徹底的にボディーチェックしましたが、綿入れのときはボタンをはずして触り細かくチェックした。人数はわからりませんが全部で女性が数百人いたと思います。私の働くところ、縫製だけでも20~30人はいました。また、他には、洗うところとか、梱包とか、裁断などいろいろと仕事を組に分けていました。すべて女性でした。
 その後現在になって、兄弟3人になった。71才の弟と、79才の妹が南京に住んでいます。母が当時出産した一番下の弟は餓死して亡くなりました。育てられなかったのです。
                【「銘心会南京」友好訪中での聞き取り、崎山昇起こし、松岡環編集】





反日勢力は、「南京の人口は当時100万超で、犠牲者数は30万人だ。これは誰にも反論できない数字だ」などと主張しています。

歴史的事実として、南京での局地戦は存在しました。

しかし、「南京大虐殺」は存在しなかったのであり、「南京大虐殺」とは朝日新聞や旧社会党など反日勢力が捏造したものです。

1937年当時、南京には100万人超の市民が住んでいました。

しかし、8月から上海で戦争が始まり、10月になって大量の支那軍が南京に逃げ込むと、多数の南京市民は日本軍が占領した上海などに避難しました。

そして、南京で戦闘が始まった1937年12月12日の夜には、南京の人口は約20万人でした。

しかも、善良な市民は全員が安全区に避難していました。

南京陥落後、日本軍が南京を占領してからは、南京の人口は減るどころか逆に増えています。

1938年1月14日、日本軍の南京占領1ヶ月後の生存人口は約25万人(安全委員会公文書)で、南京で戦闘が始まったときよりも人口は増えました。



【動画】南京日本兵の証言

244:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/22(木) 16:18
南京日本兵の証言
実際の当時の南京の映像を用いて大虐殺はなかったことを証言している


【動画】
南京日本兵の証言 パート1
http://youtu.be/tQ-ekDm2FyI


656:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 13:49
南京の話題がある様なので、私の伝聞。

もう大分前、趣味で史跡を探索中と仰るお爺さんと調布の多摩川沿いで
話をする機会があった。調布飛行場の話から戦時中の話になり、
この方が南京郊外の航空隊に整備兵として勤務されていたと知る。

私はかねて疑念の南京虐殺の話をふってみたところ、お爺さんキョトンとして、
「どこの話?南京じゃないでしょ」と仰られた。

そして「あんたがた若い人達はモウバイ(と聞き取れた)って知らないだろうなぁ」と言うので、「なんですか?」と私。

「客の選り好みをしないように目を潰された売春婦だよ。」

「南京には歳とって商売できなくなったモウバイがいっぱい居てね、
それが道端で乞食をしてるんだ」

「日本の軍隊が入城してね、司令官がこれはいかんと施設を作り彼女達を
収容して面倒をみたの。そして、そのような売春婦の禁止令を出したんだよ。
大陸の習慣だったんだろうが哀れでね。」

世に流布される南京虐殺とは真逆な話を時にニコニコとして淡々と話される。
日本人の感性から妙にすんなりと納得してしまう話だった。
むしろこれが南京の普通の話なんだと無理なく聞けた。

「あと衛生班を作ってね、不衛生で病気の人達なんかの簡単な治療もして
皆から喜ばれたし、いろんな改革もしたんだよ」

整備兵という環境がそうなのか、およそ悲惨な話など出てこない。
若かった爺さんが外出で訪れた南京市内の話は妙に開放感ある明るい思い出話だった。

「あんな事してたらね、日本は戦争には勝てっこないよ」とお爺さん。

「えっ?」「日本軍はね、市街地の軍事拠点を爆撃する場合、
前もって飛行機からビラを撒くんだ」

「何日に爆撃するから一般人は避難しろってビラをね」
「あんた一般人て言たってね、兵隊も逃げるよ。だからぜんぜん効果ないんだなハハハ。」

後に知った事だが戦争協定を真面目に守ろうとした日本人らしい実話だったのだなと思い返す。

「航空隊が出撃するよね、すると必ず未帰還機が出るの」
「その日の夕飯は出撃前の全員分の食事を出すのが慣わしでね。
未帰還の搭乗員の分だけ席が空いて余るの」

「それをね基地の近所の民家の人たちに配るんだけど皆よろこんでね」
「戦争が終わって引き上げる時ね、皆がまた来てねと言って手を振って別れてきたんだよ」

また来てね・・・か。
そんな交流が普通の日本人の感覚だろうなと、すんなりと得心した話だった。

当時も今も日本人の感覚はそうは変わらない。
我々の感性を超えた非道で残虐な話は疑ってかかった方が良い。

あのお爺さんは今もご存命だろうか。
縁者に本当の現実だった事を語り伝えていて呉てるだろうか。

この話を心ある人に伝えたくて、誰かと共有したくて書き込みました。

>また、旧日本軍の元従軍慰安婦だったと主張する韓国人女性の李容洙さんは16歳の時に旧日本軍によって台湾へ連行され、元従軍慰安婦にされたと主張している。

また李容洙か!

元朝鮮人慰安婦の李容洙(イ・ヨンス)が、日本軍従軍慰安婦の被害を実名で告発してから約20年になります。
これまで、李容洙の証言は、慰安婦になった状況や、慰安婦になった年齢もコロコロと変ってきました。

李容洙の証言(一部)

【関連記事】
従軍慰安婦問題は被害者証言が十分な証拠

李容洙は、当初、「1944年の秋から3年間慰安婦として生活をした」という証言でした。

しかし、3年間の慰安婦をしたのであれば、大東亜戦争終結後も従軍慰安婦を続けたことになります。

2007年2月23日に埼玉で行われた「イ・ヨンスさんのお話を聞く会」の配布資料では、「戦後も慰安婦を続けたのは嘘だ!」と非難されていたので訂正をしました。


「ピースボート」は反日組織で、「南京大虐殺紀念館」で抱擁しながら涙を流し、互い慰め合った楊翠英と李容洙は証言が変わる嘘つき婆です。

左翼と支那人と朝鮮人は信用するな!

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1200人アンケートで「韓国が嫌い」は87%

週刊文春がメールマガジン読者1184人にアンケートを行ったところ、「韓国が好き」が150人(12.7%)に対し、「韓国が嫌い」は1034人(87.3%)に上った。

また、10月17日から執り行われる靖国神社の秋の例大祭に、安倍首相が参拝するべきかどうかを聞いたところ、「参拝するべき」が832人(70.3%)、「すべきではない」が352人(29.7%)という結果になった。 

「韓国が嫌い」と答えた人からは、「一方的に実質支配を続けようとする竹島問題や、慰安婦問題。日本側にも問題はあるだろうが韓国側のやりようは度を越えている」(67・男・福岡)、「歴代大統領は国内の支持が低下すると、日本に対して強腰に出て、人気を回復しようとする傾向がある。欺瞞に満ちた韓国政府は困りものだ」(53・男・神奈川)などの意見が寄せられた。

一方、安倍首相の靖国参拝をめぐっては、「他国のことに口を出すなと言いたい。確かにA級戦犯も祀られてはいるが、日本の為に戦った兵士たちを祀っている。趣旨も分からず馬鹿の一つ覚えで文句を言うのは止めてもらいたい」(42・女・神奈川)、「参拝すべきというより、もししなければ、『(安倍首相が第一次政権時代に参拝できなかったことを)痛恨の極みだ』と言ったことが食言となる」(73・男・静岡)といった意見が寄せられた。 

10月15日時点で、安倍首相は靖国に参拝するかどうか明らかにしていない。 
2013.10.16 週刊文春
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/3230




>週刊文春がメールマガジン読者1184人にアンケートを行ったところ、「韓国が好き」が150人(12.7%)に対し、「韓国が嫌い」は1034人(87.3%)に上った。

まだ1割も「韓国好き」がいるのか(――;)

電通支配のマスコミが必死に韓流ゴリ押しをしていますが、竹島・慰安婦・対馬の仏像などの問題により、日本人の嫌韓感情は高まっています。



韓流ブームにピリオド? 日本人観光客“激減”に泣く韓国現地ルポ!

かつての韓流ブームもどこへやら。韓国が思わぬところでヒーヒー言っている。
昨年3月、単月としては過去最高となる約36万人の日本人観光客が韓国を訪れたが、竹島問題など日韓関係の悪化によって、昨年9月以降、前年割れが続いているのだ。

この事態に、今年4月、韓国の旅行会社約1万5000社からなる韓国旅行業協会は政府に窮状を訴え、緊急の金融支援を求めたほどだ。

影響は旅行会社だけにとどまらず、広告にヨン様を起用して日本人向けにガンガンとPRを続けてきたロッテグループの「ロッテホテル」が今年の1~3月期決算で営業赤字に陥るなど、ホテル業界もダメージを受けているという。

そうした状況は、直近のデータでも変わらないようで、JTBがまとめた夏休み期間中(7月15日~8月31日)の海外旅行人員予想によると、韓国は前年比24・8%減になる見通し。
2013年08月11日週プレNEWS抜粋




>靖国神社の秋の例大祭に、安倍首相が参拝するべきかどうかを聞いたところ、「参拝するべき」が832人(70.3%)、「すべきではない」が352人(29.7%)という結果になった。

参拝するべきだ!

安倍首相の消費税率引き上げ会見後の内閣支持率は、産経新聞社とFNNの合同世論調査は58・6%、共同63・3%、毎日57%と高水準を維持しています。

週刊文春の、安倍首相は靖国神社の秋の例大祭に「参拝するべき」は70%超で、内閣支持率を大きく上回っています。

これは、安倍内閣不支持の人でさえ安倍首相は靖国神社の秋季例大祭に参拝するべきと考えているからで、首相靖国参拝支持という国民の声です。

つまり、安倍首相が今回も靖国神社参拝を見送れば、安倍内閣支持率は低下し、参拝すれば内閣支持率は高まるということです。


>「韓国が嫌い」と答えた人からは、「一方的に実質支配を続けようとする竹島問題や、慰安婦問題。日本側にも問題はあるだろうが韓国側のやりようは度を越えている」


「日本側にも問題はあるだろうが」とは、どの問題を指しているのかはわかりませんが、日本政府の対韓弱腰外交が大きな問題としてあることは事実です。

例えば、従軍慰安婦問題の元凶である「河野談話」についての朝日新聞と産経新聞の報道に対する政府の姿勢です。

朝日新聞は10月13日付の1面トップで、「慰安婦問題の拡大阻止 92~93年、東南アで調査せず」というタイトルの記事を掲載しました。

朝日は、「慰安婦問題が日韓で政治問題になり始めた1992~93年、政府が韓国で実施した聞き取り調査を東南アジアでは実施しないよう圧力を加えたことが入手した外交文書などで分かった」という報道でした。

10月16日付の産経新聞は1面トップで、「元慰安婦報告書 ずさん調査 氏名含め証言曖昧 河野談話 根拠崩れる」というタイトルの記事を掲載しました。

産経は、「河野談話の根拠となった韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査報告書を入手したが、証言の事実関係や氏名などに不正確な例があり、歴史資料としては通用しない内容」という報道でした。

つまり、朝日新聞は「河野談話を正当化」するための報道であり、産経新聞は「河野談話を否定」する報道です。

政府は、朝日新聞が入手した外交文書も、産経新聞が入手した聞き取り調査報告書も、その内容を把握しています。

政府としては、朝日と産経が入手したと主張する資料などを精査してから、「河野談話」についての見解を述べるべきです。

安倍首相は、「河野談話の見直し」作業を行いたいと言明していたのです。

2012年12月27日、安倍首相は「河野談話」について、有識者の意見を聴取し、見直しを視野に検討に入る方針を固めました。

12月31日付の産経新聞には、産経による安倍首相の単独インタビューが掲載されました。



安倍首相インタビュー 詳報 TPP、集団的自衛権、村山談話、憲法改正…

■河野談話

 平成5年の河野洋平官房長官談話は官房長官談話であり、閣議決定していない談話だ。19年3月には前回の安倍政権が慰安婦問題について「政府が発見した資料の中には軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」との答弁書を閣議決定している。この内容も加味して内閣の方針は官房長官が外に対して示していくことになる。
2012,12.31産経新聞抜粋




昨年末、菅官房長官は記者会見で、「閣議決定を踏まえ、内外の有識者、歴史学者の研究を検討するのが望ましい。私がそういう立場の人に聞くこともあり得る」と述べました。

それなのに菅官房長官は16日、産経新聞の報道について、「河野洋平官房長官談話の正当性には影響しない」との認識を示しました。


<慰安婦>調査ずさん報道に官房長官「河野談話に影響せず」

 菅義偉官房長官は16日の記者会見で、産経新聞が同日付朝刊で「韓国での元従軍慰安婦への聞き取り調査報告書がずさんな内容だった」と報じたことに対し、慰安所の設置や管理などに旧日本軍の関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話の正当性には影響しないとの認識を示した。

 菅氏は河野談話について「政府文書の包括的調査や韓国での聞き取り調査などを総合的に判断した」と述べ、報告書だけを根拠に判断したのではないと説明。「安倍晋三首相は筆舌に尽くし難いつらい思いをされた方々を思い、心を痛めている。この問題を政治、外交問題にすべきではないと考えている」と述べた。

 同紙は、政府が93年7月にソウルで行った元慰安婦16人への聞き取り調査の報告書を入手したとし、証言の事実関係や氏名などに不正確な点があったと報じた。
毎日新聞 10月16日



>安倍首相の靖国参拝をめぐっては、「他国のことに口を出すなと言いたい。確かにA級戦犯も祀られてはいるが、日本の為に戦った兵士たちを祀っている。趣旨も分からず馬鹿の一つ覚えで文句を言うのは止めてもらいたい」

そうだ!

しかしA級戦犯は違います。

すでに日本は、A級戦犯も含め戦犯とされた方々の名誉を回復しており、国内的にも国際的にも戦犯は存在せず、靖国神社にA級戦犯は合祀されていません。



【A級戦犯の名誉回復史】
1961年
9月、サンフランシスコ平和条約調印
11月、大橋武夫法務総裁
「戦犯は国内法においてはあくまで犯罪者ではない」

1952年
4月28日、サンフランシスコ平和条約発効
外務省の西村熊雄条約局長
「平和条約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向かって効力を失うのが国際法の原則だから、第11条はそういう当然の結果にならないために置かれたもの」
(第11条は、刑の執行の即座停止の阻止が目的)
政府は拘禁中の全ての戦犯の全面赦免を関係各国に要請

5月1日、木村篤太郎法務総裁が戦犯の国内法上の解釈についての変更を通達。戦犯拘禁中の死者は全て「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる。
(平和条約で戦争犯罪の撤回を認め、戦犯は国内法上の犯罪者とみなさず)

6月7日、戦犯の釈放を求める全国的な署名運動は4千万人達成

6月9日、「戦犯在所者の釈放等に関する決議」12月9日、「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
1953年8月3日、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
1955年7月19日「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」まで衆参合わせて4回の国会決議が可決
「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにし、
「戦犯」とされた人々の死を「戦争による公務死」とした。

【関連記事】

東条英機元首相ら元A級戦犯


>「参拝すべきというより、もししなければ、『(安倍首相が第一次政権時代に参拝できなかったことを)痛恨の極みだ』と言ったことが食言となる」

そうだ!

8月15日、安倍首相は靖国神社に参拝せず、自民党の萩生田総裁特別補佐を通じて、「自民党総裁・安倍晋三」として私費で玉串料を納めました。

安倍首相は、在任中に靖国神社に参拝するかについて、「靖国神社に参拝するかしないかについてはそれ自体が政治問題、外交問題に発展していくという観点から、申し上げないという考えだ。いずれにせよ、国のために戦った方に対する感謝の気持ちと尊崇の念は、これからもずっと思い続けていきたい」と述べました。


しかし、中韓は、首相が靖国神社に参拝しなくても、歴史認識や竹島・尖閣諸島を持ち出して対日批判をしています。

米国のブッシュ政権1期目に国務副長官を務めた、リチャード・アーミテージも、「日本が靖国で譲歩しても、必ずまた別の難題を持ち出して非難の口実にしてくるだろう」と述べました。


そもそも、靖国神社参拝とは国内問題であり、中韓が外交の政治カードとして利用しているのです。

本来、首相と閣僚・国会議員は年に3回(春秋の例大祭と8月15日)は、靖国神社を参拝することが慣わしとなっていました。

所謂「A級戦犯」合祀後も、首相と閣僚は靖国神社に参拝していたのであり、中共も韓国も抗議をしていませんでした。
所謂「A級戦犯」は、1978年(昭和53年)の秋季例大祭に合祀され、翌年の1979年4月に報道されました。



【所謂「A戦犯」合祀前後の歴代首相靖国神社参拝回数】

福田赳夫首相(1977~1978年)4回参拝1977年4月21日、1978年4月21日・8月15日・10月18日(※A級戦犯合祀翌日)
1978年10月17日 A戦犯合祀される
1979年 4月19日 A級戦犯合祀報道
大平正芳首相(1979~1980年)3回参拝1979年4月21日(※A級戦犯合祀報道2日後)・10月18日、1980年4月21日
鈴木善幸首相(1980~1982年)9回参拝
1980年8月15日・10月18日・11月21日、1981年4月21日・8月15日・10月17日、1982年4月21日・8月15日・10月18日
中曽根康弘首相(1983~1985年)10回参拝1983年4月21日・8月15日・10月18日、1984年1月5日・4月21日・8月15日・10月18日、1985年1月21日・4月22日・8月15日



1979年12月、大平正芳首相は訪中しましたが、中共は大平首相を大歓迎しました。

1982年9月、鈴木善幸首相は訪中しましたが、中共は鈴木首相を大歓迎し、日中国交正常化10周年記念講演を行いました。

1985年(昭和60年)まで、首相や閣僚が靖国神社を参拝することは、当然の責務とされ、国内でも海外でも問題視はされていませんでした。

旧社会党や朝日新聞など反日勢力が中共に火をつけ、韓国も便乗して靖国神社を対日強硬外交の切り札としているのです。

首相が靖国神社を参拝しないことを、中韓は難癖さえつければ日本は屈する国だと受け取っており、首相が参拝しなければ中韓と対等な立場とはいえません。

安倍首相が高い支持率を維持し長期政権を望むのであれば、「韓国嫌い」が87.3%に上っている今こそ、靖国神社の秋季例大祭に参拝すべきです。

中韓の内政干渉に屈するな!


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靖国放火目的?“敷地内に潜伏”自称韓国人の男逮捕

靖国神社に侵入した疑いで男が逮捕されました。火をつけようとしていた可能性もあります。

自称・韓国籍のカン・ヨンミン容疑者(23)は、22日午後5時ごろ、靖国神社の敷地内に無断で侵入した疑いが持たれています。

警視庁によりますと、靖国神社の警備関係者が敷地内のトイレの脇に潜んでいるカン容疑者を発見して連れ出そうとしたところ、ペットボトルを取り出し、拝殿前の石畳にシンナーのような液体をまいたということです。

警視庁は、荷物の中にライターが2つ入っていたことなどから、放火しようとしていた可能性もあるとみて調べを進めています。

カン容疑者は通訳を通じて取り調べに応じていて、「入ったことは間違いない」と容疑を認めています。
09/23 テレ朝news
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000012859.html



>自称・韓国籍のカン・ヨンミン容疑者(23)は、22日午後5時ごろ、靖国神社の敷地内に無断で侵入した疑いが持たれています。

警視庁公安部は建造物侵入の現行犯で、韓国籍の無職、カン・ヨンミン容疑者(23)を逮捕しました。

逮捕容疑は、22日午後5時ごろ、 千代田区 九段北の靖国神社に不正に侵入したとしています。

警視庁公安部によると、カン・ヨンミンは容疑を認めています。

警視庁公安部によると、靖国神社の衛視が午後9時ごろ、南門近くのトイレ裏に隠れているカン・ヨンミンを発見して敷地外に連れ出そうとしました。

カン・ヨンミンは、リュックサックから2リットル入りのボトルを取り出し、引火性のトルエンとみられる液体を拝殿に投げかけようとしたため、衛視が取り押さえました。

警視庁は、カン・ヨンミンのリュックサックの中からライター2個が見つかったことから、放火目的で侵入した可能性があるとみて、詳しい動機を調べています。

報道によると、カン・ヨンミンは21日に日本に入国して、22日は神社の門が閉まる1時間前の午後5時ごろに敷地内に侵入しています。

カン・ヨンミンは、いつ、どこからトルエンとみられる液体を入手したのでしょうか。

テロ対策を講じている日本に、海外からトルエンとみられる液体を持ち込むことは不可能に近いでしょう。

日本でトルエンは、「毒物及び劇物取締法」により劇物に指定されており、簡単に入手できません。



【靖国神社放火未遂犯足取】

9月21日 カン・ヨンミン入国
22日 靖国神社の門が閉まる1時間前の午後5時ごろに敷地内に侵入
22日午後9時ごろ逮捕


9月21日~22日、東京には民団や総連、左翼や韓国人、極左過激派や反社会的組織が結集していました。

9月21日~22日には「日韓交流おまつり2013 in Tokyo」があり、9月22日には「差別撤廃東京大行進」がありました。

カン・ヨンミンには共犯者がいる可能性が高く、警視庁公安部はトルエンとみられる液体の入手経路を徹底的に調べるべきです。


これまでにも韓国人と支那人は靖国神社襲撃テロ事件を起こしています。

2011年12月26日午前4時10分ごろ、靖国神社の神門が放火される事件がおきました。

2012年1月8日、在韓日本大使館へ火炎瓶が投げ込まれる事件が起きました。

逮捕された支那人容疑者は、在韓日本大使館に火炎瓶を投げつけた事件の取り調べや公判で、「靖国神社に放火した」と自供をしていました。

日本と韓国は、「犯罪人引渡しに関する日本国と大韓民国との間の条約」(日韓犯罪人引渡条約)を締結しています。

日本政府は、「靖国神社に放火した疑いのある中国人容疑者を引き渡すように」と、韓国政府に日韓犯罪人引渡条約を履行するように要請しました。

しかし、韓国の高等裁判所は1月3日、容疑者を「政治犯」と認定して日本への引き渡しを拒否する決定を下しました。

靖国神社放火事件の容疑者は、韓国により事実上の反日無罪となり、反日の英雄として中共に帰国しました。




【関連記事】

靖国神社放火容疑者を「政治犯」

2013年5月27日ころ、韓国人が靖国神社本殿の裏にある池に放尿しました。



韓国人が靖国神社で放尿しネットで自慢 「日本の政治家が妄言が続くたびに放尿する」

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靖国神社と言えば過去に首相が戦没者の追悼のために参拝しようとするだけで、韓国や中国、ましてや一部の国内からも反感を買うことがある。そんな靖国神社に韓国人と思われる男性が放尿しネットで自慢しているのが発覚した。

男性は靖国神社の池に放尿するだけでなく、手すりにまで放尿を行い、次のような書き込みをおこなっている。

「今後も日本の政治家が妄言が続くたびに、 愛国人の放尿が続く」

日本の政治家の靖国参拝を批判しているようだ。韓国人の日本国内での品位のない行動は度々見られるが、今回はネット上だけの騒ぎには収まりそうもない。
2013.05.29 ガジェット通信





【関連記事】

韓国人が靖国神社で放尿


韓国人は、靖国神社襲撃テロ事件の犯人を英雄視しており、今回逮捕されたカン・ヨンミンも靖国神社の放火を企てたのです。

韓国人による靖国神社放火未遂テロ事件について、日本の公共放送であるNHKは全国ネットのニュースで報道していません。


【靖国神社放火未遂テロ事件報道まとめ】

TBSは6時台の全国ネットのニュースで報道
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テレビ朝日も6時台の全国ネットのニュースで報道
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フジ、日テレも6時台全国ネットのニュースで報道
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しかしNHKの6時台はNHK-G首都圏のみで報道
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NHKは全国ネットの7時のニュースでスルー !
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9月23日の『みのもんたの朝ズバッ!』は、「日韓関係悪化の打開策」というテーマでしたが、コメンテーターは両国民の交流が大切だと世論誘導しました。

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昨日と一昨日、日比谷公園で日韓交流おまつりが開かれた。
韓国・イ・ビョンギ駐日大使「両国は困難な時期を過ごしているが、このような時こそお互いを理解し、助け合う必要がある」

というのも・・・ イ・ミョンバク前大統領の竹島上陸以降、関係悪化。
安倍政権とパク・クネ政権で首脳会談が行われていない。

韓国の反日感情・・77%  08年比25%↑(米国シンクタンク調査)
日韓関係 良好でない・・78.8% 過去最高 (内閣府 調査)

浅羽祐樹准教授「日韓関係は新しい局面に入った。互いに信頼関係がない中で相手の裏の意図を勘ぐってしまっている」(山口県立大学)
日韓交流の一方で悪化する日韓関係は・・・?!

相次ぐ日本批判

今月「九州・山口など明治日本の産業革命遺産」→世界遺産 推薦決定
その前に韓国外務省が「植民地時代に朝鮮半島から強制徴用された暗い歴史がある」と横やりを入れ、反対の意向を示した。

柿崎氏「これ、歴史問題なんで韓国政府も特に譲れない所がある。これが韓国政府の本音かと言えばそうじゃないと思う。歴史問題・反日感情に考慮して言わざるを得ないという事。」

韓国の司法は新日鉄などに対して賠償命令も!浅羽准教授「戦時中に日本で徴用された韓国人の賠償を巡る裁判が韓国で争われる中、抗議しなければ国内で何を言われるかわからない」

今月8日の2020年東京五輪開催決定後、韓国メディアは「歴史を無視し、汚染水問題をごまかし続けるなら東京五輪は多くの国がボイコットする」と批判。
インターネットでは「放射能に汚染されている所で五輪なんて」と

そして2日後には福島など8県の水産物の輸入を全面禁止に。

池田氏「海が無い県まで禁止なのは、これも1つのデモンストレーションで実効性は関係ない。一応『言う』という事。」
まさに嫌がらせ?浅羽准教授「イ・ミョンバク前大統領は、米のBSE基準を緩和して支持率が急落した。水産物不安で高まる中での国内でのアピールだったのでは?」

そして批判は8月の人工衛星打ち上げ用イプシロンロケットにまで。韓国メディアは「大陸間弾道ミサイルへの転用が可能」と報じた。

また宮崎駿監督の「風立ちぬ」は、「戦争を美化」「旭日旗も登場」と批判。・去年、ロンドン五輪でサッカー選手が「独島は我が領土」と掲げ、竹島問題の出口が見つからない。

一方、韓国では弁当チェーンで「独島弁当」を販売。売上げの一部は島の警備費にあてられている。(キムチ・トンカツ・チキン・エビフライ入り 約400円で一昨年より販売)


長崎の対馬市では韓国人窃盗団が仏像を盗み、韓国側が返還拒否

韓国では4月に"千年恨、対馬"(2014年、韓国と北朝鮮連合軍が対馬奪還)という、穏やかではない小説が出版。
パク大統領が「千年恨」という言葉を3月の演説で使い、流行語・ブームに。


辺真一氏「日韓の間はお互いに相手国を刺激する行事や記念日が多すぎる。一難去ってまた一難。ちょっとしたことで関係が悪化する可能性も」
浅羽准教授「2015年 日韓国交回復50周年に向けて韓国では戦後補償のルールを見直そうという動きもある。そうなれば日韓関係は更に悪くなる可能性も」

では日韓関係は今後どうなればいいか? (パネル)

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柿崎氏「(強い政権、太いパイプ、深い交わり) ・・・色んな問題はあるが、隣国で北朝鮮・経済問題とかあるのでこのままではいけない。ただ早急に国民感情が直らないとすると、強い政権同士で意思疎通すると。更に首脳交流含めて国民全体がより深めていくしかない。」

大串氏「(ファッション・美容・エンターティメントなど文化交流)・・・歴史認識の問題はすぐに解決しないので文化交流していけばいい」

池田氏「(若者(子供) 交流)・・・やはり若い人のパーソナル・付き合いが大事」


ブログ「テレビにだまされないぞぉ」転載


日韓関係悪化の原因はすべて韓国側によるもので、靖国神社放火未遂テロ事件を起こした韓国人との交流は不要です。


反日韓国人を入国させるな!


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震災の混乱に乗じ、不逞鮮人の行った凶暴!!

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「朝鮮人虐殺に日本軍が組織的に介入」 関東大震災の真相を暴露した西崎雅夫氏

「朝鮮人を10人ずつ縛って軍人が機関銃で殺した。死ななかった朝鮮人は線路に並べて石油をかけて焼いた」

「臨月の女性の腹を縄で縛って川に投げた。すると赤ん坊が生まれた。2人はへその緒でつながれたまま川に流された。本当に悲惨だった」

「朝鮮人の死体は魚市場で大きな魚を運ぶように足首を鉄の鎖でつながれ、警察署まで運ばれた」

1923年9月1日に発生した関東大震災から90年が経ち、当時、東京一帯で強行された朝鮮人虐殺を伝える3冊の証言集がまとめられた。著者は西崎雅夫氏(53)。西崎氏は30日、東亜(トンア)日報とのインタビューで、「日本政府は、関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺と関連して、軍や警察の関与を隠したり縮小してきた。しかし、日本軍が直接朝鮮人を殺害し、警察がデマを流したという多くの証言がある」と強調した。西崎氏は、日本社会が当時の教訓を直視しなければ悲劇が繰り返されると警告した。

「当時、日本軍が朝鮮人を殺すと、一般民衆は『万歳』を叫んで歓迎した。朝鮮人が殺人や放火をしているというデマを信じ、軍が自分たちを守ってくれると考えたのだ。これが契機になって日本軍はファシズムに突き進んだ。政府が中国と北朝鮮の脅威を利用して自衛隊を国防軍に変更しようとする最近の動きも同じ流れだ。歴史は繰り返す」

西崎氏は中学校の元英語教師だ。健康上の理由で10年前に退職し、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の仕事に専念してきた。西崎氏は証言を集めるために4年間、東京の公立図書館で資料をさがし、数万冊の本を閲覧した。

――どんな証言が多かったか。

「日本の警察が『朝鮮人が井戸に毒を入れた』というデマをねつ造して民衆が自警団を作って朝鮮人を虐殺したという内容だ。日本軍が直接殺したという証言も多い。妊婦もお腹に爆弾を隠しているといって殺した。上海臨時政府がその年の12月5日付の独立新聞に、6661人が犠牲になったと報じた。しかしこれも確かな数字ではない」

――当時、日本政府はどのように対応したか。

「国際社会の批判を恐れて、日本軍が殺害した事件を除いて民衆が殺害した事件だけ一部裁判にかけたが、ほとんど執行猶予などの軽い処罰で終わり、4ヵ月後の皇太子の結婚式の時に皆恩赦を受けた。日本政府はむしろ朝鮮人の暴動証拠が発見されなかったため、無理に証拠を作ろうとした」

――日本人たちの反応は…。

「ほとんど知らずにいたが、話を聞いて『ショック』を受ける。そこから日本の将来を考えるようになる。最近、高校教科書で関連内容を記述した箇所が削除されているが、日本はますます過去に戦争を行なった原因を忘れつつある」

西崎氏は、市民団体とともに朝鮮人虐殺に対する日本の国家責任を問う署名運動を6月から展開している。現在500人余りの署名が集まった。今年の年末まで署名を集め、国会衆参両議院の議長に対して真相究明を求める請願を出す予定だ。
AUGUST 31, 2013 03:18 東亜日報
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2013083194878



>「朝鮮人を10人ずつ縛って軍人が機関銃で殺した。死ななかった朝鮮人は線路に並べて石油をかけて焼いた」

>「臨月の女性の腹を縄で縛って川に投げた。すると赤ん坊が生まれた。2人はへその緒でつながれたまま川に流された。本当に悲惨だった」

>「朝鮮人の死体は魚市場で大きな魚を運ぶように足首を鉄の鎖でつながれ、警察署まで運ばれた」


酷い捏造だ!

関東大震災が発生したのは、1923年9月1日です。

90年前の日本には多くの外国人が居住しており、このような朝鮮人虐殺事件が起きれば外国メディアが大々的に報道していたはずです。

しかし、外国メディアが報道したという記録は残っていません。


>西崎氏は30日、東亜(トンア)日報とのインタビューで、「日本政府は、関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺と関連して、軍や警察の関与を隠したり縮小してきた。しかし、日本軍が直接朝鮮人を殺害し、警察がデマを流したという多くの証言がある」と強調した。

>西崎氏は中学校の元英語教師だ。


元日教組か?

反日左翼や反日韓国人ら反日勢力は、関東大震災発生直後に朝鮮人大虐殺事件が起きたと歴史を捏造しています。

そして反日勢力は、日本の子供たちに「関東大震災朝鮮人大虐殺」を事実だと教えています。

修学旅行中の中学生は、朝鮮大学校の在日朝鮮人から「関東大震災で朝鮮人が暴動を起こしたというデマが流れ、朝鮮人狩りも行われた」と、朝鮮人大虐殺を事実と学びました。


【関連記事】

滋賀の中学生、関東大震災時の「朝鮮人狩り」などの歴史を在日コリアンから学ぶ
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/36653649.html

毎年9月1日に韓国メディアは、関東大震災で在日朝鮮人数千~2万人が虐殺されたと報道します。

特に今年は関東大震災発生より90年となるので、韓国メディアの日本非難報道は過熱しています。



反日勢力は、日本軍従軍慰安婦と同じように、関東大震災で朝鮮人大虐殺が起き、日本軍が組織的に介入したと主張しています。

韓国の歴史学界は、「ナチスのユダヤ人大虐殺や日本軍による南京大虐殺にひけを取らない。『関東大震災』は『関東大虐殺』と改めるべきだ」と主張しています。


韓国歴史学者「関東大震災は関東大虐殺と改めるべき」―韓国メディア

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30日、韓国・朝鮮日報によると、韓国の歴史学者が、1923年9月1日に日本で起きた関東大震災は「関東大虐殺」と改めるべきだと主張している。

2013年8月30日、韓国・朝鮮日報によると、韓国の歴史学者が、1923年9月1日に日本で起きた関東大震災は「関東大虐殺」と改めるべきだと主張している。人民日報(電子版)が伝えた。以下はその内容。

90年前の1923年9月1日に日本で発生したマグニチュード7.9の大地震は、もともと自然災害だったが、無数の韓国人が日本人に虐殺される惨劇へと大きく変わった。

当時、日本政府は「朝鮮人が至る所で放火し、狼藉を働いている」といううわさを流し、「朝鮮人を殺しても構わない」と煽り立てたことで、大量の韓国人が殺された。統計では6600~2万人が殺害されたとみられている。事後に日本政府は偽装工作を行い、責任を平民に押し付け、加害者を放置し、教科書を改ざんした。

韓国歴史学界は、「事件は民族浄化と大虐殺にほかならない。その残虐さや狂気さは、ナチスのユダヤ人大虐殺や日本軍による南京大虐殺にひけを取らない。『関東大震災』は『関東大虐殺』と改めるべきだ」と主張している。(翻訳・編集/北田)
Record China 8月30日(金)19時50分配信



反日勢力は、関東大震災朝鮮人大虐殺を真実と証明するために、吉原の遊女達たちの遺体の写真を悪用しました。

2月3日、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、関東大震災時に起きた虐殺事件当時に撮影されたとみられる写真を聯合ニュースに公開しました。


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チョン・ソンギルは、「犬が亡くなっても碑石を立てる日本人が自国の人だったら死人の遺体の下衣を脱がせただろうか。虐殺以上の蛮行」と憤りました。

チョン・ソンギルは、3~4年前、日本で写真を入手し、「写真を見て驚愕した。女性の下衣が脱がされているなど、残酷で恥辱的だったので公開したくなかった」と主張しました。

息をするように嘘をつくのが韓国人であり、チョン・ソンギルも大嘘つきでした。

大正時代は洋装への過渡期で、関東大震災当時の女性は和装で下着(ズロース)を着けていた人は少なく、裾除けを当てていました。

そして、洋装が普及した要因といわれているのが、関東大震災で焼死した女性のご遺体なのです。

昭和7年12月の「白木屋(デパート)の火災」で、和装女性は下着を着けないという慣習が問題視され、当時の風潮とも相まってズロースの着用の要因となりました。


そして、チョン・ソンギルの公開した写真は、サイト「関東大震災の写真集」にある、「吉原の池から引き上げた女郎の死体」と同じ写真でした。


関東大震災で発生した大火災から逃れようとした吉原の遊女達が、次々と吉原の弁天池に身を投じて、490人の遊女が弁天池で亡くなったということです。

チョン・ソンギルの写真は、サイト「関東大震災の写真集」主宰者の父親が持っていた、弁天池で亡くなった吉原の遊女達を引き上げた時に撮影した写真でした。



▼吉原の池から引き上げた女郎の死体

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▼チョン・ソンギルの写真


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【関連記事】

「吉原の池から引き上げた女郎の死体」の写真を悪用するな
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/37486306.html

関東大震災で朝鮮人が虐殺されたことは事実ではなく、朝鮮人により日本人が殺害されたことが真実です。

ロシアの支援を受けた朝鮮独立運動家のテロ集団と、日本の社会主義者が共謀をして、日本を拠点にさまざまなテロ工作を行うようになりました。

朝鮮人テロリスト集団は、関東大震災を好機到来として、家屋への放火や、日本人を殺害して、混乱を増大させて朝鮮独立運動を盛り上げようとしました。

関東大震災直後に、朝鮮人テロリスト集団と暴徒化した在日朝鮮人から、家族や町内を守ろうとして自警団が戦いました。

この過程で、巻き添えになって殺害された一般の朝鮮人犠牲者がいただけです。



これより先は、『関東大震災での朝鮮人大虐殺の真実』を掲載します。

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1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災は、死者・行方不明者は10万5385人、被災者190万人以上という未曾有の大災害でした。

大震災発生直後に、「朝鮮人が暴徒化して、井戸に毒を入れている」・「略奪や放火をしている」などのデマが流れ、朝鮮人の大量虐殺があったとされています。

後述しますが、虐殺された朝鮮人犠牲者は当初2万人とされて、現在でも、デマを信じた日本人が数千人の朝鮮人を虐殺したとされています。

しかし、朝鮮人が暴徒化したのは事実であり、日本人の正当防衛による朝鮮人殺害はありましたが、朝鮮人の大虐殺はありませんでした。

1910年に「日韓併合条約」(韓国併合ニ関スル条約)が締結されました。

1917年のロシア革命で、共産ロシアは日本の赤化を企んで、朝鮮の独立運動を支持して、日本の社会主義者たちを煽動しました。

1919年に、大韓帝國初代皇帝高宗の死をきっかけに朝鮮で三・一運動と呼ばれる独立運動が起こり、当時の朝鮮総督府はこれを鎮圧しました。

在日朝鮮人の人口は、1918年(大正7)年に1万4501人でしたが、関東大震災の1923年には8万617人と急増しました。

その中に、朝鮮独立を目指す朝鮮独立運動家のテロリストたちが混じっていました。

ロシアの支援を受けた朝鮮独立運動家のテロ集団と、日本の社会主義者が共謀をして、日本を拠点にさまざまなテロ工作を行うようになりました。

朝鮮人と社会主義者の真の目的は、1923年11月27日に予定されていた「御大典」という、皇太子(後の昭和天皇)御成婚の儀での波状テロと言われています。

摂政宮である皇太子殿下を暗殺して、日本の国体を揺るがせることで、日本の共産化・朝鮮独立運動の勝利が目標だったといわれています。

御成婚の儀は、関東大震災が起こったために延期されました。

朝鮮人テロリスト集団は、関東大震災を好機到来として、家屋への放火や、日本人を殺害して、混乱を増大させて独立運動を盛り上げようとしました。

関東大震災で、朝鮮人が最初に暴徒化したのは、震源地に近くて被害が甚大だった横浜で、地震により警察は機能不全に陥っていました。

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東京・横浜では震災直後から火事場泥棒などを取り締まるために、町内ごとに自警団が組織されていました。

朝鮮人は徒党を組み、略奪、暴行を繰り返しながら、多摩川を越えて東京西部に侵入をしました。

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関東大震災直後の混乱の中で、朝鮮人テロリスト集団が日本人被災者に対して無差別攻撃を仕掛けて、震災を逃れた日本人被災者たちが多数殺されました。

自警団が、朝鮮人テロリスト集団と戦った過程で、巻き添えになって殺害された一般の朝鮮人犠牲者もいました。

しかし、震災下の混乱にあるテロとの戦いの犠牲者で、朝鮮人の虐殺ではありません。

暴徒化した在日朝鮮人から、家族や町内を守ろうとして自警団が戦った結果、殺害された一般の朝鮮人犠牲者も同じです。

関東大震災の翌日、9月2日に樹立した山本権兵衛内閣で、後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁に就任しました。

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後藤新平は、事態をこのまま放置すると、朝鮮人暴徒と日本人自警団の抗争が激化して内戦状態になるのではないかと危惧して、報道を差し止めました。

後藤新平は、警視庁幹部だった正力松太郎に、「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは自警団には気の毒だが引いてもらう。」と語ったといわれています。



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工藤美代子著、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』

■1.「朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり抜いて鼻をそぎ、、、」

 関東大震災の翌年、大正13(1924)年5月、在東京英国大使館から、ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド英首相に、あるパンフレットが送付された。『日本での朝鮮人大虐殺』と題した小冊子で、横浜の英国総領事あてに郵送されてきたものである。その中には、次のようなおどろおどろしい記述があった。[1,p245]

_____
1923年9月1日ごろ(JOG注: 震災当日)、日本政府は一般大衆のほか、兵士、警察本部、自警団に向けて無線で特別命令を出し、「朝鮮人の老若男女を街角で見つけるか、家の中、あるいはどこかに隠れているのを見つけたら、いつでも殺害せよ」と指示した。・・・

 騎馬兵はあらゆる方角から朝鮮人を追いかけ、銃撃を加えて皆殺しにした。このようにして殺された人数は次の通りである。

ハダ(羽田?)2000、隅田川沿い400、品川300,サキダマケン(埼玉県?)駅400・・・

 しかし、最も痛ましい殺人は、いわゆる自警団や民衆によって行われた。「朝鮮人だ、朝鮮人だ」と叫び、朝鮮人攻撃に加わった。彼等は朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり抜いて鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした。・・・

 2万人以上の罪なき人が野蛮な日本人によって虐殺された。朝鮮人に開かれている道はただ一つ。それは「日本人が朝鮮人を殺したように、日本人を殺すこと」だ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「眼球をくり抜いて鼻をそぎ」というのは、中国や朝鮮でかつて行われていた虐殺方法だが、我が国では聞いたことがない。どうも「南京事件」と同様、中国や朝鮮が絡むと、そこに登場する日本人は突然、大陸・半島風の残虐さを発揮するようだ。

 今日でも流布されている関東大震災における「朝鮮人虐殺」が、すでにこのように国際的な政治宣伝に使われていたのである。

■2.「そう住民が思い込んだのには根拠がまったくないわけではない」

 この小冊子を本国に送るにあたって、在京英国大使館は次のようなメモをつけている。[1,p244]

______
 小職の複数の報告でお分かりの通り、大震災後に多くの朝鮮人が殺害されたことは疑いのない事実であります。しかし、不幸な出来事はこの小冊子の著者によって著しく誇張されており、日本の当局が虐殺を扇動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます。

 東京や横浜の住民は恐慌状態に陥り、朝鮮人が略奪や政治的復讐のため家々に火を放っていると思いました。小職には放火があったともなかったとも証明する手立てはありませんが、欧州人を含む事情通の多くは、そう住民が思い込んだのには根拠がまったくないわけではないと考えています。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 すなわち、英国大使館の見る所では:

・大震災後に多くの朝鮮人が虐殺された。
・日本の当局がそれを扇動したわけではない。
・住人は、朝鮮人が略奪や政治的復讐のために放火した、と思った。
・そう思い込んだのは、根拠がまったくないわけではない。

 当時の英国大使館といえば、中立的客観的な見方のできる立場にあった。当時の史実を丹念に分析した工藤美代子氏の労作『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』があきらかにしたところも、この英国大使館の見方を大筋で一致している。
「震災下のテロとの戦い」抜粋



関東大震災直後に、日本人が命がけで朝鮮人を守っているのが真実で、朝鮮人も事実だと認めて感謝しています。

横浜の鶴見警察署長の大川常吉は、警察に保護された朝鮮人300人のために、警察を取り囲んだ1000人の群衆に対峙しました。

そして、「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って、一升ビンの水を飲み干したと言われています。

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関東大震災直後に東京とその近郊にいた朝鮮人の総人口は約9800人で、死亡や行方不明は約20%くらいだと考えられています。

軍や警察は、朝鮮人を保護するために、習志野陸軍廠舎や各警察署などに6800人を収容して、毛布や握り飯が支給されて負傷者は軍医から手当を施されました。

この時点で、190万人の日本人被災者の相当部分が、野宿をしたり、食糧不足に苦しんだりしたことを考えても、朝鮮人を手厚く保護していました。

関東大震災の直後に発足した山本権兵衛内閣は、治安回復に乗り出して、9月2日に東京全市、京浜地区に戒厳令が敷かれました。

戒厳令司令部は、過剰防衛として日本人367人を逮捕して、殺害された朝鮮人は233人と公表しています。

反日勢力が数千人~2万人という、関東大震災での朝鮮人大虐殺は起きていません。


つまり、関東大震災で朝鮮人がテロを企てたり、暴徒化しなければ、日本人にも朝鮮人にも犠牲者が一人もでなかったのが真実なのです。


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近野滋之

Author:近野滋之
こんのしげゆき
Nationalist
1962年9月14日生まれ
東京都新宿区出身
財団法人日本遺族会会員
21世紀日本政経会議議長
少年教育を考える会理事
靖國神社崇敬奉賛会正会員

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