HOME   »   スポンサー広告  »  スポンサーサイトYahoo!ブログ過去記事  »  敵兵を救助せよ封印された奇跡、救難活動中を示す国際信号機を掲げ英国兵の救助に当たった駆逐艦「雷」(いかずち)の工藤俊作艦長、海軍兵学校の「士官たる前に紳士たれ」の教えは日本の美徳ある武士道精神
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良識ある日本国民の皆様には、駆逐艦「雷」(いかずち)の工藤俊作艦長はご存知だと考えます。

私は昨日から風邪気味でテレビでの報道しか確認出来なかったので、本日は、駆逐艦「雷」の工藤艦長の過去記事を再アップさせて頂きますが、前にお読み頂いた方には申し訳御座いません。

私の祖父は昭和19年に戦死した海軍少将で、工藤艦長と同じ山形県出身、「米沢興譲館中学」(旧米沢藩の藩校として設立され、正式名称は山形県立米沢中学校)・「海軍兵学校」(祖父は48期・工藤中佐は51期)も同じです。

駆逐艦「雷」(いかずち)の工藤俊作艦長は、上杉家の義を重んじる心、海軍兵学校の「士官たる前に紳士たれ」の教えを受けた、帝國海軍の職業軍人です。

1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃の2日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃、最新鋭の不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と、戦艦「レパルス」を撃沈した。

駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。

1942年2月15日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダの艦船と合同して連合部隊を結成。2月27日から3月1日にかけて 、ジャワ島北方のスラバヤ沖で「日本艦隊」と「英米蘭の連合艦隊」が交戦(スラバヤ沖海戦)、日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。

日本海軍は優勢で、日本艦隊は多くの敵艦を撃沈し、敵連合艦隊は大惨敗した。撃沈した英海軍の巡洋艦「エクゼター」・駆逐艦「エンカウンター」の乗組員400名以上が救命ボートなどによる漂流を続け20時間以上が経ち生存の限界に達していた時、目の前に日本海軍の駆逐艦「雷」が現れた。

英国海軍フォール中尉は、「日本人は残虐」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと、英海軍の漂流者たちは「死」を覚悟した。

「雷」は海面に浮遊する多数の英国兵を発見した。この時期には、米蘭の多くの潜水艦がジャワ海で行動しており、わが国の艦艇も犠牲になっていた。3月1日には、この海域で輸送船「加茂川丸」が敵潜水艦の攻撃を受け沈没。

工藤の兵学校時代の教官であった、船長の清水巌大佐(海兵39期)が船と運命を共にしている。それほど危険な海域なのである。敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。まさに交戦中の危険な海域での出来事であった。

だが、「雷」艦長の工藤俊作少佐は海軍兵学校で学んだ「敵を敬う」との武士道精神を見せ、「敵兵を救助せよ」と発令。兵士達は、自分たちより数の多いイギリス兵を助けることに戸惑った。

しかし、工藤艦長の海軍兵学校の頃から教育されてきた武士道。敵とて人間、弱っている人間を相手にフェアな戦いはできないのだ。兵士達もこの考えに従うことになった。この命令により「雷」は、「救難活動中」を示す国際信号機を掲げ、英国兵の救助に当たったのである。

長時間の漂流で体力を消耗している英国兵を、海面から拾い上げる救助作業は難航。そこで工藤艦長は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」との命令を発し、船内総力を挙げての救助に当たるよう指示したのである。ほぼ総員に近い兵員と、はしご、ロープ、竹竿、さらには、海中に飛び込んでまでの敵兵救助、魚雷搭載用のクレーンまで使用可能なすべての装備を投入した救助であった。




「燃料が不足する」との進言を受けても、工藤艦長は「漂流者を全員救助せよ」、「漂流者は1人も見逃すな」、工藤艦長のさらなる命令により、「雷」は進行しては止り、すべての英国兵を救助したのであった。その数は実に「442名」であり、まさに「雷」の乗組員に倍する人数であった。「雷」の兵員は、重油で汚れた英国兵士の身体を、アルコールと木綿で丁重に拭き取り、貴重な水と食料を提供したのであった。




救助した英国兵の中から将校たちを甲板に招き、工藤艦長は次の言葉を発している。

「You had fought breavely. 諸官は勇敢に戦われた」、「Now, you are the guest of the Imperial Japanese Navy 諸官は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」

工藤艦長のこの言葉に、英国将校たちは敬礼を以って感謝の意を表したのであった。

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将は、「エクゼター」・「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。

救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている「旭日の軍艦旗」に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ「工藤に敬礼」して「雷」をあとにした。




工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたが、「雷」は1944年4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦の攻撃を受け沈没し乗員は全員戦死した。工藤艦長は、多くの乗組員が犠牲になったという自戒の念から、大東亜戦争終結後もこの救助事実を家族にも話さなかった。

昭和54年1月12日、工藤艦長は78歳の生涯を静かに閉じた。工藤艦長は自らのことを何も語らずに亡くなったが、生前、一度だけイギリス兵について話したことがあるという。

彼がいつも持っている黒いバッグがボロボロだったため、姪が「なぜ新しいのに替えないの?」と聞いたところ、「イギリス兵にもらった大切なバッグなんだ」と語ったという。工藤艦長の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。工藤艦長は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。




この時救助された「フォール」氏は英国に戻り、後にフォール卿となり外交官として活躍し、晩節に差しかかった1996年に自らの人生を一冊の著書にまとめた「マイ・ラッキー・ライフ」を執筆し、その1ページ目にはこの本を「私を救ってくれた日本帝国海軍の工藤俊作少佐に捧げる」と記している。

2008年12月7日、元英国海軍中尉サムエル・フォール卿(89)は66年の時間を経て、埼玉県川口市内の工藤俊作元日本海軍駆逐艦「雷」艦長の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えた。



海軍兵学校の「士官たる前に紳士たれ」の教えを受けた工藤艦長、たとえ敵兵でも命を掛けて救助する日本軍は、美徳ある日本の武士道精神の持ち主です。

良識ある日本国民の皆様、日本の美徳ある武士道精神についてご考慮下さい。

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近野滋之

Author:近野滋之
こんのしげゆき
Nationalist
1962年9月14日生まれ
東京都新宿区出身
財団法人日本遺族会会員
21世紀日本政経会議議長
少年教育を考える会理事
靖國神社崇敬奉賛会正会員

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