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良識ある日本国民の皆様には、天安門事件から23年になるのはご存知だと考えます。
 
 
天安門事件 あす23年 デモ黙認は「ガス抜き」
 
中国当局が民主化運動を武力弾圧した1989年の天安門事件から4日で23年を迎える。事件が風化する中、遺族らは事件の再評価を求めているが、当局は社会の安定を優先する姿勢を崩していない。

 【北京=矢板明夫】中国中南部の貴州省などで、天安門事件の記念行事が黙認されるなど、今年は民主化活動家や遺族への締め付けが例年より緩和されたと指摘されている。共産党内で改革派が政局の主導権を握りつつあることと関連しているとみられる。しかし、関係者の間では「不満をガス抜きさせているだけ。事件の再評価にはつながらない」との見方が強い。

 貴州省貴陽市で5月28日、数十人の民主活動家が同市の中心広場付近で、「事件の犯人を追及せよ」「政治犯の釈放を」といった内容の横断幕を掲げ、約2時間デモ行進した。見物人を含めて最大時数百人まで膨らんだが、当局からの妨害は受けなかった。

 北京在住の民主化関係者によれば、5月末から6月初めにかけて、福建省、山東省でも同様な小規模デモがあった。「これまでに遺族による追悼行事が認められたことはあったが、民主化要求のデモが黙認されたのは聞いたことがない」(同関係者)という。

 また、事件で両足を失う重傷を負った方政氏(46)=米国在住=が5月31日夜、同事件の記念行事に参加するため、無事に香港に入境できたことも中国当局の対応の変化のひとつと指摘された。これらの変化は、今春の権力闘争で保守派の有力者、薄煕来・前重慶市トップの失脚にともない、民主化に同情的な温家宝首相の影響力の拡大が背景にあるとの指摘がある。

 しかし、遺族や関係者への監視や盗聴がなくなったわけではない。特に北京在住の関係者は依然として厳しい状況に置かれている。ある遺族は一連の変化について「今年秋に共産党トップを退く胡錦濤国家主席が人権弾圧のイメージを払拭するための演技にすぎない」と冷ややかにみている。

 事件で銃弾を浴び、片足を失った人権活動家の斎志勇氏(56)は産経新聞の電話取材に、「23年間、何度も期待したがいつも失望に終わっている。幻想などないが、政府の謝罪と賠償を勝ち取るまで、戦い続ける」と語った。
産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120603-00000075-san-int
 
 
>中国当局が民主化運動を武力弾圧した1989年の天安門事件から4日で23年を迎える
 
「天安門事件」から23年になりましたが、中共という国は内政も外交も、国家の体制そのものが変わっていません。
 
そして後述するように、日本国民が忘れてはならないことは、中共に「天安門事件」で天皇陛下を政治利用されたという事実です。
 
>事件が風化する中、遺族らは事件の再評価を求めているが、当局は社会の安定を優先する姿勢を崩していない
 
中共政府は、胡錦濤指導部が交代する5年に1度の共産党大会を秋に控えて、民主活動家らの抑え込みに一段と力を入れています。
 
そして、「天安門事件」で22歳の次男を亡くした北京市の男性が、「死をもって抗議する」という遺書のようなものを書いて自殺をしました。
 
 
1989年4月15日に死去した胡耀邦元共産党総書記を、学生や知識人らが追悼する動きが広がり、北京の天安門広場を中心に民主化要求運動に発展しました。
 
中共政府は戒厳令を布告して、6月4日未明に軍が武力鎮圧しました。
 
天安門事件(動画)
 
 

 
 
「天安門事件」から20年となる2009年に、米国政府が事件当初から全容を把握していたことを証明する秘密文書が解禁されました。
 

 
 
北京の米国大使から本国政府へ送られた「天安門事件」についての最初の秘密報告の概要
 
6月4日午前1時、北新華街の片隅でも1・6キロも離れた民族飯店周辺から初めての銃声が聞こえてきた。西長安街ではバスやトラックが転覆、放火されて、オレンジ色の炎が道路沿いに広がった。
 
銃声がさらに大きくなり、人民解放軍の装甲車のヘッドライトが東に向けて動くにつれ、群集の間の怒りが高まった。年配の女性が「なぜ中国人が中国人を撃つのか」と叫んだ。若い男が「われわれは中国人だが、彼らは違う」と声をあげ、中南海を指さして「彼らは悪者なのだ」と叫んだ。
 
1時10分。群集の後方から腹に響く音が聞こえてきた。炎に包まれた装甲車が疾走してきた。装甲車の車輪に向け、群集は大きなコンクリート片を投げつけ、停止させた。怒った群集は装甲車を取り囲み、古い木材を積み重ねて火を放った。数分後、車の扉が開き、兵士が1人、飛び出した。群集は彼を捕まえて殴り、殺してしまった。
 
1時20分。後続の装甲車隊が群集を銃撃しながら北新華街に次々に到着した。弾丸が飛来し、群衆のなかに血まみれになって倒れる人間が続出した。デモ参加者は兵士たちが空砲でもゴム弾でもなく実弾を撃っていることを知り、恐怖に駆られて天安門方向や脇道へと逃走した。
 
1時45分。さらに新たな部隊が天安門に着き、装甲車隊が長安街に面して一定間隔で展開し、人民大会堂の東正面にも達した。装甲車隊は東長安街の約1万5000人の抗議者らにヘッドライトの光をあて、不動の態勢をとった。
 
2時9分。毛沢東主席の肖像画の前に並んだ将兵と装甲車隊は長安街の大群衆に対し発砲した。群集は東の北京飯店の方向へと、どっと避難した。多数の人間が銃弾を浴びて倒れ、苦痛の悲鳴が起きた。報告者に向かって「なんとかしてくれ! あなたがた外国人に助けて欲しい!」と叫んだ男は次の瞬間、額の真ん中に銃弾を受けて倒れた。
 
2時30分。約100人の解放軍兵士は歴史博物館隣の道路の向かい側に腹ばいで布陣し、ライフルを40メートルほど東のデモ隊に狙いを定めていた。兵士たちが狙撃をするたびに、デモ隊はばらばらとなり、遮蔽物を求めた。数分後には街路に戻り、仲間の死体を輪タクに乗せ、元の場所に集結した。次に再び銃撃が起きると、10~15人のデモ隊の人間たちがまた倒れた。
 
4時27分。天安門の照明は同3時30分に消えていたが、また点くと、装甲車、戦車、トラックなどが果てしないほど並んだ兵器集団が姿をみせた。照明は広場の北端近くの「民主の女神」の残骸を照らし出した。人民英雄記念碑の周囲からは煙が上がっていた。広場での銃撃は学生たちが人民解放軍への武器のない対決で、希望を失いながら殺されていったことを意味していた。
 
5時30分。装甲車、戦車、トラック合計約50台から成る軍の第2の隊列が轟音をあげながら東長安街を通って、天安門広場に入った。民主活動家たちが怒りの声をあげると、解放軍将兵はジープに装備した機関銃2丁を撃ち始め、15分ほども銃撃を続けた。
 
この大虐殺が中断されたとき、天安門広場と北京飯店の間の東長安街の路上には25~30の人間の体が横たわり、その一部はもがき、他は動かなかった。活動家たちはその道路ににじり寄り、死傷者を輪タクに乗せ、人民解放軍の狙撃手の列とまた対決する構えをとった。
 
6時20分。装甲車、戦車、トラック合計約40台の軍の第3の隊列が東長安街を東から驀進し、広場に入った。人民解放軍将兵は民主活動家ら群集に向けまた10分ほど機関銃の激しい射撃を続け、多数の死傷者を出した。
 
この2回の虐殺の間、天安門の政府拡声器からは奇妙に優しくなめらかな声が流れ、「北京の友人たち」に「混乱は終わり、秩序が回復され、乱暴者たちは鎮圧されました」という鎮静の言葉が伝えられ続けた。
 
7時30分。拡声器が静かになって数分後、聞きなれた勇ましい中国国歌が流れて、周囲の空気を圧した。だが国歌の吹奏はその途中で歴史博物館の背後から響いてくるライフル発射の音と東長安街でのデモ参加者にまた発射された機関銃の連続音とに抑えつけられた。
 
国歌が終わると、ソフトな女性の声が流れた。「同志たち、おはようございます。幸いにも反革命分子は粉砕されました。私たちの愛する天安門広場に平和が回復されました」
 
 
中共は、日中国交正常化20周年の年、1992年の自民党政権に天皇陛下のご訪中を要望しました。
 
1989年6月4日、中共での民主化を要求して北京の天安門前広場で座り込みをしていた学生や市民らを、中共政府は、人民解放軍が戦車で轢き殺すなど大虐殺を行ないました。
 

 
 
中共政府は、「天安門事件」死者数を319人としていますが、実態は分かっていません。
 
「天安門事件」の後、西側諸国は中共への制裁として、投資を激減させるなどを行いました。
 
中共は孤立した状況で、経済的にも窮地に追い込まれていました。
 
しかし、1991年に首相の海部俊樹が訪中をして、日本は対中制裁を全面解除しました。
 
日本が対中経済制裁解除をしても、他の西側諸国は中共への制裁などの態度を変えませんでした。
 
1992年に首相になった宮沢喜一は、日中国交20周年を理由に、自民党内の反対派議員や、多くの日本国民の反対を無視して、天皇陛下のご訪中を閣議決定しました。
 
私が若い頃に同じ釜の飯を食い活動をした同志は、天皇陛下のご訪中阻止の目的で自決用の拳銃を所持して、首相官邸に火炎車で自爆テロを行いました。
 
 
衆院通用門前で車両炎上 自称元右翼(動画)
 
 
 
1992年10月、天皇陛下はご訪中をされました。
 
天皇陛下のご訪中によって、西側諸国も中共への制裁を解除させることになりました。
 
中共の銭其元外相は「外交十記」という回想録に、
「日本は西側共同戦線の脆弱な部分で、最もいい突破口だった。(天皇訪中は)西側共同戦線や圧力を打破するのにプラス効果をもたらした」
と記しています。
 
天皇陛下がご訪中された翌年、1993年に江沢民が国家主席に就任しましたが、「愛国主義教育実施要綱」が伝達されて、更なる反日教育を推し進めました。
 
1998年11月26日、国賓として来日した江沢民国家主席を歓迎するために、天皇・皇后両陛下主催の宮中晩餐会が催されました。
 
宮中晩餐会は、出席者全員がブラック・タイの礼服でしたが、江沢民は中山服(人民服)という平服姿で臨席して皇室を侮辱しました。
 

 
 
江沢民は、宮中晩餐会でも、「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国人民とアジアの他の国々の人民に大きな災難をもたらし」などと、日本批判をしました。
 

 
 
「天安門事件」で窮地にあった中共は、天皇陛下のご訪中を政治利用して、西側諸国からの制裁を解除できたのに、江沢民は反日教育を推し進めました。
 
1972年(昭和47年)9月29日、日本は中共との国交を樹立しましたが、この40年で中共との関係が正常かつ友好的になったことはありません。
 
5月22日に、中国共産党で外交を統括する王家瑞対外連絡部長が、尖閣諸島について、「核心的利益だ」と述べたことがわかりました。
 
中共の高官が公に尖閣諸島を「核心的利益」と明言したのは初めてで、尖閣問題について日本側に一層強硬な姿勢を誇示する方針と考えられます。
 
政財界は、中共に一歩譲れば二歩も三歩も踏み込まれるということを、「天安門事件」で理解すべきです。
 
中共の、パンダ外交に騙されている国民も目覚めるべきです。
 
中共は、チベットを侵略して多くのチベット人を虐殺し、ダライ・ラマを国外へ追い出しています。
 
パンダとは、中共がチベットを弾圧したことでの戦利品で、日中の平和を象徴する動物ではありません。
 

 
 
天安門事件から23年になりますが、日本国民が忘れてはならないことは、中共政府に「天安門事件」で天皇陛下を政治利用されたという事実です。
 
良識ある日本国民の皆様、中共についてご考慮下さい。
 
 
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プロフィール

近野滋之

Author:近野滋之
こんのしげゆき
Nationalist
1962年9月14日生まれ
東京都新宿区出身
財団法人日本遺族会会員
21世紀日本政経会議議長
少年教育を考える会理事
靖國神社崇敬奉賛会正会員

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