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良識ある日本国民の皆様には、玄葉光一郎外相は丹羽宇一郎駐中国大使の処分をしないのはご存知だと考えます。
 
玄葉外相、丹羽大使の処分考えず=自民に更迭論
 
玄葉光一郎外相は8日午前の記者会見で、丹羽宇一郎駐中国大使が英紙インタビューで東京都による尖閣諸島購入計画を「日中関係に極めて深刻な危機をもたらす」と批判したことについて、「(大使は)大変申し訳ない。ご迷惑をお掛けしました。一切このようなコメントはしないということなので、現時点で私としては受け止めている」と述べ、処分する考えのないことを明らかにした。

 一方、同日昼の自民党外交部会では「明らかに政府と違う見解を越権行為で言った。中国大使としてふさわしくないし、代わってもらいたい」といった更迭論が相次いだ。「(丹羽氏に)どういう振り付けをしたのか。外務省の責任も問われる」との意見も出た。
 
時事通信
 
>処分する考えのないことを明らかにした
 
玄葉光一郎外相は丹羽宇一郎を更迭しないのですから、玄葉が代わりに責任を取って外相を辞任すべきです。
 
私は本ブログ昨日の記事で、丹羽宇一郎が都による尖閣諸島購入計画に「重大な危機をもたらすことになる」と反対表明したことを書き記しました。
 
 
丹羽宇一郎は、5月4日にも、訪中した横路孝弘衆院議長と習近平国家副主席との会談に同席して、習近平に対して問題発言をしています。
 
丹羽は、石原都知事の尖閣諸島購入表明を支持する意見が多数を占めることについて、「日本の国民感情はおかしい」と発言しています。
 
また、「日本は変わった国なんですよ」と発言していたという報道もあります。
 
>中国大使としてふさわしくないし、代わってもらいたい」といった更迭論が相次いだ
 
自民党は政府に対して、丹羽宇一郎を更迭するように要求すべきです。
 
また、谷垣総裁の声が聞こえてきませんが、衆院解散へ追い込む気がないのでしょうか?
 
私は本ブログで、尖閣沖中共漁船衝突事件での菅政権の対中国辱外交の際に、日露戦争前後の日本の外交を担った小村寿太郎外相を記事にしました。
 

 
日本人外相 中国人有力者に体の小ささ侮辱され「大男は愚鈍」
 
 日露戦争前後の日本外交を担った外相小村寿太郎は他に類を見ない外交家であった。今回の尖閣事件で醜態を晒したわが政府の外交ぶりは交渉力絶無の無惨な屈従土下座外交の見本だったが、小村の外交はその対極にある模範であり交渉の手本であった。
 
 明治日本最大の外交課題は条約改正と朝鮮問題である。明治政府は徳川幕府が欧米諸国と結んだ不平等な修好通商条約の改正に苦悶した。治外法権を撤廃したのが陸奥宗光外相であり、関税自主権を回復し条約改正を完成したのが小村外相で明治44年(1911年)である。
 
 もう一方の朝鮮問題は条約改正に幾層倍する難事であった。これよりわが国は日清、日露の二大戦争をせざるを得なかったからである。日清戦争時の外相が陸奥宗光である。この時、小村は陸奥に見出され駐清代理公使となり、陸奥を補佐して活躍した。陸奥は時局を見通す小村の見識と洞察力に感嘆して、「小村は何より見通しが早くそれに正確だ。殆ど誤謬もないようじゃ」と語っている。
 
 小村が北京にいた時、面白い話がある。ある宴席で清国きっての有力者、李鴻章が列国公使の居並ぶ中、小村に「こう見渡したところ各国公使中閣下が一番小さくいらっしゃる。貴国人はみんな閣下のようにそんなに小さい人ばかりですか」と言い放った。日本を弱小国と蔑み衆人環視の中で小村を侮辱したのだ。こうした振る舞いが今も変わらぬシナ人の習性である。
 
 小村は即座に切り返した。
 
「いやわが国にも閣下の様に体の大きな男はおりますが多くは愚鈍の者です。わが国には、大男総身に知恵が回り兼ねという諺(ことわざ)がある位で彼らはとても通常の仕事に耐えませんので、やむなく相撲取りに仕立て渡世の道を立てさせております」
 
 李は返す言葉なくきまり悪そうに引き下がった。今日の共産シナのわが国への侮辱と敵意に満ちた威嚇外交に対してもみ手してひれ伏す民主党政府の面々に、小村の爪の垢を煎じて飲ませたいものだ。
 
SAPIO201116日号
 
 

 
小村寿太郎
 
明治の男
 
小村寿太郎には虚像と実像がある。戦後人口に膾灸した虚像は日本の戦後平和主義が生んだものである。
 
すなわち戦争継続を要求する世論に敢然と抗して、ポーツマス条約を結び、日露の平和を達成したという虚像である。
 
実際は、ポーツマス条約の締結に際して、小村は最強硬派であり交渉の打ち切りと戦争の継続を主張し続けた。
 
これを心配したセオドー・ローズベルトが日本の本国政府に直接訴えて、やっと小村を迎え込んだというのが実像である。
 
ポーツマス交渉で小村のどこが偉かったかと言えばそんなことではなかったと思う。
 
強硬論の渦巻く日本の世論の中で、自分は本来はタカ派中のタカ派でありながら、ハト派の汚名を受けつつも、死ぬまで一言の釈明もしなかった男らしさ、それこそ明治の男だったと言える。
 
それよりも、小村の真の偉大さは、その透徹した洞察力、それをあくまでも政策に実現しようという強固な意志力、行動力、そしてその全ての背後にある強烈な国家意識、つまり愛国心にある。
 
日本を救った小村の洞察力
 
ロシアの意図に対する小村の正確な読みが無かったら日本はどうなっていただろうか、考えるだけでも肌に粟が生じる思いがする。
 
北清事変を期にロシアは満州に進撃を開始する。明治三三年(一九〇〇)八月にはチチハル、九月には長春、吉林、十月一日には奉天を占領して全満州を制圧する。
 
このときロシアは満州を永久占領する意図のないことを公式文書で声明した。
 
今でも日本の歴史学者の中にはロシアの公式文書を引用してロシアには占領の意図が無かったと言って、日露戦争の意義を否定しようとする人々がいる。
 
現在そんな左翼かぶれの学者の空論があっても、一々目くじらを立てるほどのことはないが、当時の日本、中国、朝鮮にとってはロシアの満州進出は国家存亡の問題であった。
 
それでも公式声明を出されると、もう少し様子をみようか、という程度の反応が出るのは普通であり、それがロシアの付け目であった。
 
しかし時の駐露大使小村寿太郎は、すでに九月二十四日の公電で、「ロシアは完全かつ永久的に満州を管理することとなろう」という判断を報告している。
 
しかも小村はそれよりも早く行動を起している。小村の判断では、ロシアはどうせ満州を取る。これは、誰も阻止できない。
 
英米を含め欧米列強の誰もロシアを阻止出来る陸軍力をアジア大陸に展開し得ないからである。
 
それならむしろ、日本は、ロシアが取る前にそれを認める代償として朝鮮を日本の勢力範囲と認めさせられないだろうか、と考えたのである。
 
そして十月にはヤルタまで行って保養中のウィッテに会ってそれを説得しようした。驚くべき行動力である。
 
日露戦争に負けた後ならばそれはロシアにとって良い取引だったろうが、当時のロシアは日本など相手にしなかった。
 
ウィッテの反応は、平たく言えば、ロシアが満州を取るのに日本の承認など必要でない。むしろ満州を取れば隣の朝鮮にも当然関心がある、ということであった。
 
ここで小村は早くも、満韓交換論から満韓一体論、つまり韓国を守るためには満州も守らねばならないという考えに切り替える。
 
これは日露戦争直前まで元老を含む多くの日本の指導者が満韓交換論に望みを託したのと較べて感嘆すべき卓見であった。
 
更に、満韓一体論はひっきょうは日満韓一体論でもあった。朝鮮半島までロシアに取られたならば日本の安全も危うくなるからである。
 
この小村の鋭い判断なしでは日露戦争の勝利は無かったといえる。
 
当時の日露の国力軍事力の差は桁違いであり、尋常の勝負で勝てるはずも無かった。唯一の方法は、シベリア鉄道を使ってロシアが兵力を集中する前にこれを撃滅するしかない。
 
明治三七年(一九〇四)初秋の遼陽の大会戦は二十二万五千のロシア軍に対して十三万四千の日本軍で戦った。無謀なようであるがそれ以外方法が無かった。
 
日本側には動員力の限りがあるのに対してロシア側は毎日毎日兵力が増えるからである。そして明治三八年三月の奉天の大会戦ではロシア側は三十二万に増えていた。
 
これに対して日本側は旅順から駆けつけた七万を加えて二十五万、それが日本が搾り出せるギリギリの戦力だった。
 
これ以上少しでも開戦が遅れていたならば日本の勝ち目は無かったと思う。
 
明治天皇、元老始め指導者たちの慎重論を克服して、一日も早い開戦に持ち込んだのは、実に当時の小村外相の働きだったと言って過言でないぐらい小村の意見は終始はっきりしていた。
 
それは外務大臣としての職責の上での小村の貢献である。しかし小村の愛国精神は、その時々の職権にかかわらず、あるいは職を賭しても、発揮されている。
 
一身を顧みず国事に奔走す
 
明治二十二年(一八八九)大隈重信外相は条約改正案をまとめるが、その中に治外法権を撤廃するための妥協として大審院に外国人判事を入れることとした。
 
小村は当時外務省の一局長であったが、これを国辱と考えて、ひそかに案文をロンドン・タイムズに漏らして暴露し、世論の反発を喚起しこの案を葬ったという。
 
もちろんそれが判れば直ちにクビであるが、その危険を敢えて冒したのである。国益、日本の名誉のためには一身のことなど眼中になかったのである。
 
日清戦争開戦時は、小村は北京の代理公使であったが、東京から国交断絶、開戦の通告が一向にこないのに業を煮やして、これでは開戦の時期を失してしまうと言って、独断で公使館の国旗を降ろして北京を退去してしまう。
 
もっともこのときは、単なる電報の配達の遅れだったようで、入れ違いに訓令が来たらしいが、こんなことは、一身を顧みず国事しか念頭に無い人以外は出来ないことである。
 
明治の人たちの出処進退について、われわれ戦後の日本人が感嘆するのは貧乏を恐れない度胸である。
 
吉田茂のように一生使っても使いきれないような遺産を相続していれば、上司に歯向かうことも、命令に違反することも出来る。
 
しかし小村の貧乏は史上名高いほどのものである。
 
その中で、外務省の高位高官という地位を擲っても自分の信念を貫くということはよほどの純枠さがなければ出来ることではない。
 
【代々木】2005年秋号(9月1日発刊)掲載 岡崎久彦~抜粋
 

 
玄葉外相は丹羽宇一郎を更迭しないなら外相を辞任すべきで、日本の政治家は、日露戦争前後の日本外交を担った明治の男「小村寿太郎」外相に学ぶべきです。
 
良識ある日本国民の皆様、小村寿太郎外相についてご考慮下さい。
 
 
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近野滋之

Author:近野滋之
こんのしげゆき
Nationalist
1962年9月14日生まれ
東京都新宿区出身
財団法人日本遺族会会員
21世紀日本政経会議議長
少年教育を考える会理事
靖國神社崇敬奉賛会正会員

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