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良識ある日本国民の皆様には、神風特別攻撃隊はご存知だと考えます。
 
大東亜戦争開戦までのフィリピンは、スペインに約300年、米国に約50年も植民地にされていました。
 
フィリピン人のダニエル・ディソンが奔走して、フィリピン政府により建立された「カミカゼ記念碑」があります。
 
このあたりは大東亜戦争中に日本軍が使用していたマバラカット飛行場で、ここから最初の神風特別攻撃隊が飛び立ちました。
 
ディソンが大戦中に日本軍人と出会ったのは11歳の時でした。
 
一人のフィリピン少年はどのような思いで、このような記念碑を造るに至ったのでしょうか。
 

 
神風特攻隊全戦没者の碑(慰霊碑は、先のピナツボ火山の噴火によって喪失してしまった)
 
碑文(原文は英語)
 
ここは第二次世界大戦当時最初のカミカゼ基地、マバラカット東飛行場跡です。
カミカゼ特攻隊は昭和十九年十月二十五日大西海軍中将によってマバラカットで編成された。
最初の志願者は当地に進駐していた帝國海軍第一航空艦隊第二〇一航空隊所属の搭乗員二十四人でした。
最初のカミカゼ隊指揮官は、大尉関行男で「神風特別攻撃隊」と呼ばれ敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の四隊に分かれていた。
昭和十九年十月二十五日敷島隊は関大尉指揮のもとに午前七時二十五分ここを飛び立った。
部下隊員は一等飛行兵曹中野磐雄、一等飛行兵曹谷暢夫、飛行兵長永峰肇、上等飛行兵大黒繁男でした。
同日午前十時四十五分レイテ近海にて米海軍空母群を発見。
先ず関大尉機が米艦セイントローに体当り爆破二十分後に沈没させ隊員機は米艦カリニンベイ、同キトカンベイ、同サンガモン、同サンテイ、同スワニー、同ホワイトプレンズを攻撃した。
戦果では関行男大尉を「世界最初の正式人間爆弾」としている。
第二次世界大戦終了までのカミカゼ特攻の戦果は米艦隊の撃沈又は大破合計三二二隻兵員に与えた損害九〇〇〇人以上であった。
そしてカミカゼ隊員五〇〇〇人の内四六〇〇人が戦死した。
カミカゼ特攻はすべての世界史に記録の例のない壮挙であり、又歴史のあきらかにするところによればその背後にあった理念は正に凡ての国が相互尊重と機会均等の原則に従って共存共栄を偕にする世界の秩序と平和の確立をひたむきに願いその実現のため散華したことです。
この碑は、神風特攻隊戦没者全員と米国および連合国の犠牲者のために建立されたものである。
訪問者はこれら英霊の永遠の鎮魂と世界の恒久平和のために、祈りを捧げてください。
 
 
1941(昭和16)年12月8日の午後1時頃、昼食を終えたディソン少年が立ち上がった所で、突然地面が揺れ、窓がガタガタと鳴った。
 
祖父が「地震だ、地震だ」と叫んだ。
 
その後に、ゴーという低い轟音がして、続いて、ポップコーンが破裂するような音が空から降ってきた。
 
窓に駆け寄って空を見上げると、小さな破裂した煙がいくつも見え、そのはるか上に爆撃機の編隊が二つ見えた。
 
初めて見る日本軍だった。
 
地震だと思ったのは、その爆撃機が落とした爆弾だった。
 
近くにあるクラーク飛行場は、アメリカ軍の極東での主力基地である。そこを日本軍が急襲したのだった。
 
祖父は、「何故日本がこんなところを攻撃できるんだ。日本はずっと遠くにあるはずじゃないか」と叫んでいた。
 
祖父は新聞で日中戦争の事を知っており、また近くに住む中国人が日本人は残虐だと触れ回っていたので、日本軍をとても恐れていた。
 
もちろん私は日本軍をとても恐れてはいました。
 
しかし、その時心の中では密かに日本軍のことを賞賛していました。
 
何しろ決して敗れないはずの白人を、私達と同じアジア人の日本人がやっつけているのですから。
 
私達は皆、日本の爆撃機の数を数えていました。
 
私はその光景を忘れません。12月の深い青色の空に機体が白く美しく見えました。
 
ディソンの一家は戦闘を逃れて、深い谷間に数日隠れていたが、ようやく静かになったので町に戻ってきた。町には大勢の日本兵がいた。
 
ディソン少年の伯父はマニラで日本人と働いたことがあるので、「『アリガト』と言え」と教えてくれた。
 
そこで、ディソンらが「アリガト!アリガト!」と言うと、日本兵はみな笑い出した。
 
何かひどい扱いを受けるのではないかと心配していたディソンは、少しほっとした。
 
日本兵たちは、ポケットから何かを出して子供達に渡した。
 
ディソン少年も一つ貰ったが、それは布でできた小さな袋で口をひもで縛るようになっていた。巾着である。
 
明けてみると、小さな四角いビスケット(乾パン)と、砂糖のボール(金平糖)が入っていた。
 
それが、ディソンが日本兵からもらった最初のものだった。
 
妻子を故郷においてフィリピンに駐屯している日本軍将兵たちにとって、フィリピンの子供達は心を和ませてくれる存在だったようだ。
 
後にディソンの妻になるエンリケッタも、アンヘレスのすぐ南のポラックという町に住んでいて似たような経験をしている。
 
近くに日本軍の飛行場があり、毎日そこに行って、雑草を引き抜く仕事をしては1ペソ貰う。
 
やがて背の低い、がっしりとした体格の日本兵が、エンリケッタによくキャンディーやクッキーをくれるようになった。
 
エンリケッタは飛行士たちとも仲良しになった。
 
飛行士の一人はエンリケッタを抱き上げて、戦闘機の翼の上に乗せ、その特設ステージで、エンリケッタは得意の歌と踊りを披露した。
 
司令官はそんな光景をいつも見ているだけだったが、ある時、エンリケッタが熱を出して二日も基地に行かないでいると、トラックで家まで見舞いに来てくれた。
 
そして袋一杯のキャンディーと、クッキーを置いていってくれた。
 
1944(昭和19)年になると戦局が悪化し、9月21日、アメリカ軍の飛行機がアンヘレス周辺にあるすべての飛行場を爆撃した。それからは毎日空襲があった。
 
圧倒的物量にものをいわせて押し寄せる米軍に、反撃を試みる日本軍に残された手段は、もはや250kgの爆弾を抱えて、敵艦に体当たりする特攻攻撃しか残されていなかった。
 
その頃から、アンヘレスで鉢巻きをした日本軍の飛行士たちを見かけるようになった。日本の兵隊たちは、彼らと街で会うとお辞儀をしていた。
 
ある晩、この飛行士たちが泊まっている家からピアノの演奏が始まり、いろいろな軍歌が聞こえてきた。悲しい調子の曲も流れた。その一つが「海ゆかば」だった。
 
そして翌朝、彼らは飛び立つと、二度と帰ってこないのだった。
 
昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。
 

 
敷島隊
 
この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。
 

 
 
こうした神風特攻隊も、戦後の日本では「戦争の悲劇」の代名詞としてしか語られていない。
 
ところが、「カミカゼ」を生んだフィリピンではその捉え方がまったく違っていた。
 
大東亜戦争における日本の精神的象徴ともいえる神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ、そしてその勇気が称賛されている。
 
平成12年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ、戦没者の慰霊祭が挙行された。
 
慰霊祭のメイン会場になったマバラカットは、首都マニラの北方約80kmに位置し、戦時中には日本の「神風特攻隊」の飛行基地があった。
 
フィリピン空軍軍楽隊の奏でる勇壮な「軍艦マーチ」が、マバラカット飛行場を見下ろすリリー・ヒルの大地を揺さぶった。
 
慰霊祭の取材にやって来た、フィリピン人ジャーナリスト、ジョジョ・P・マリグ氏は語る。
 
「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は英雄です」
 
式典に参列した、ダニエル・H・ディゾン画伯は静かに語る。
 
「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。・・・こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」
 
「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう」
 
タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれ、子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。
 

 
式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。「Brave!」(勇敢)その中の一人が続けた。
 
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています・・・・」
 
私は学生達にもう一度訊いた。
 
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」。屈託のない笑顔で皆は答えた。
 
「もちろんです!だってあの人達はヒーローですもの・・・・」
 
帰路につこうとする我々を子供達は「日の丸」の小旗をちぎれんぱかりに打ち振って見送ってくれたのである。
 
日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。頬を濡らす者もいた。
 
アジアの国々から、常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいる日本人にしてみれぱ、かなり意外で嬉しいハブニングであった。
 
 
 
 
泣ける【静ちゃんへの手紙】~神風特攻隊員の兄と幼き妹~(動画)
 
 
特別攻撃隊<最後の手紙>(動画)
 
 
 
Kamikaze Memorial Society of Philippines(フィリビン・カミカゼ記念協会)の会長を務めるディゾン画伯の自宅には、自らの手になる「敷島隊」の5人の肖像画を掲げた、「カミカゼ・ミュージアム」が設けられています。
 
2001年の米同時テロ後、特攻兵と自爆テロリストの類似性が取りざたされるようになりました。
 
「特攻兵が死を賭して突入したのは敵の戦艦。一般市民を無差別に狙ったわけではない」としています。
 
 

 
ディゾン画伯(肖像画は画伯の手になる特攻隊員のもの。左上が関行男大尉)
 
ディゾン画伯「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責した理申も理解できたのです」
 

 
フィリピンで語り継がれる特攻精神(動画)
 
 
 
神風特攻隊には、自ら志願した若い朝鮮人兵士もいました。
 
当時は日本国民として、日本の自衛とアジア解放のために戦い散ったのです。
 
現代を生きる日本人は、神風特攻隊の真実、特攻隊員の意思を子や孫へ継承すべきです。
 
特攻隊員の残した「天皇陛下万歳!」という言葉には、親子愛、家族愛、郷土愛、祖国愛だけではなく、アシア民族への愛が込められていたのです。
 
自らの尊い命を犠牲にしてアジア解放のために戦い散った神風特攻隊は、美徳ある日本の武士道精神です。
 
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近野滋之

Author:近野滋之
こんのしげゆき
Nationalist
1962年9月14日生まれ
東京都新宿区出身
財団法人日本遺族会会員
21世紀日本政経会議議長
少年教育を考える会理事
靖國神社崇敬奉賛会正会員

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