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良識ある日本国民の皆様には、ロシアのメドベージェフ首相が国後島に上陸したのはご存知だと考えます。
 
ロシア首相、国後島訪問…緊張再び高まる?
 
【ウラジオストク(ロシア極東)=緒方賢一】ロシアのメドベージェフ首相は3日、北方領土の国後島を訪問した。

 北方領土におけるロシアの実効支配を誇示したもので、日露間の緊張が高まる見通しとなった。

 タス通信によると、首相は3日夕、サハリン南部ユジノサハリンスクを小型機で出発し、国後島の古釜布(ロシア名・ユジノクリリスク)郊外にあるメンデレーエフ空港に到着した。島内では、岸壁の整備状況や病院を視察した。ゴロジェツ副首相ら3人の閣僚とサハリン州知事が同行した。

 メドベージェフ氏の国後島訪問は、大統領在任中の2010年11月に続いて今回が2度目だ。首相は当初、悪天候を理由に3日の北方領土行きを見合わせる考えを示していた。だが、夕方になり、天候が回復したとして急きょ出発した。
読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120703-00000861-yom-pol
 
>ロシアのメドベージェフ首相は3日、北方領土の国後島を訪問した
 
日本への不法入国だ!
 
日本政府はロシア政府に対する抗議として、在ロシア日本大使を召還すべきです。
 
しかし、外務省は駐日ロシア大使に対して、いつもの「遺憾の意」を伝えただけです。
 
メドベージェフが国後島へ上陸する計画はわかっていたのに、玄葉光一郎外相は 仙台市 内で不快感を示しただけです。
 
>メドベージェフ氏の国後島訪問は、大統領在任中の2010年11月に続いて今回が2度目だ
 
ふざけるなプーチン!
 
野田首相とプーチン大統領は6月の日ロ首脳会談で、停滞した北方領土交渉を再び活性化させることで合意をしていました。
 
9月に日本の首相は、ロシアが9月に主催するアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議を欠席すべきです。
 

 
 
ソ連時代から、ソ連・ロシアの最高指導者は、北方領土には訪れないことが続いていました。
 
尖閣諸島沖の中共漁船衝突事件で、菅政権の対中土下座外交を笑うように、2010年に当時は大統領だったメドベージェフが国後島に上陸しました。
 
ソ連時代の砲台前でメドベージェフはツイッターで、「ロシアにはなんと美しい場所が多くあるのだろう」・「最も遠隔地にある場所を含め、すべてのロシアの地域の発展を管理するのは大統領の責務だ」などと、国後島をロシア領土と主張しました。
 

 
 
2002年にロシアが発行したサハリン州の切手には、樺太(ロシア名サハリン)と千島列島(ロシア名クリル諸島)が描かれています。
 

 
 
私たち民族派の指す北方領土とは、政府見解の、国後・択捉・歯舞・色丹の北方四島だけではなくて、北方四島を含む「全千島列島」と「南樺太」です。
 
あの日本共産党でさえ、「全千島列島」を北方領土と主張しているのですから、日本政府は四島返還を主張しても、島は一つも戻りません。
 
1855年に、「日ロ通好条約」(日露和親条約)を締結しました。
 
日ロ両国の国境は択捉島(えとろふとう)以南(南千島列島)を日本領、得撫島(うるっぷとう)以北(北千島列島)をロシア領として確定しました。
 
樺太には国境を定めずに、日ロ両国民雑居の地としました。
 
1875年に、「千島・樺太交換条約」を締結しました。
 
日本は国境が未確定だった樺太全島に対する領有権を放棄する代わりに、占守島(しゅむしゅとう)までの北千島列島の領有権を得ました。
 
これにより、「全千島列島」は日本の領土になりました。
 
1905年に、「ポーツマス講和条約」を締結しました。
 
日本は、日ロ戦争の戦時賠償として、北緯50度以南の樺太を得ました。
 
これにより、「南樺太」は日本の領土になりました。
 

 
ソ連は、大東亜戦争の終結間近、1945年(昭和20年)8月9日に、日ソ中立不可侵条約(日ソ中立条約には相互不可侵の条文がある為)を一方的に破棄しました。
 
そして、ロシア(旧ソ連)が、日本の領土へ侵略を開始しました。
 

 
昭和20年8月8日付、日ソ中立不可侵条約を一方的に破棄した「ソ連の対日宣戦布告通知書」
 
ロシアの侵略はまさに鬼畜そのもので、民間人の大量虐殺や、強盗同然の強奪行為、日本人女子への集団強姦など、多くの日本人が犠牲となりました。
 
ロシアの不法な侵略で、日本人は悲惨な思いをさせられました。
 
夫と子供の前で、ロシア兵は日本人女性を集団強姦し、その裸体を切り裂き虐殺して、裸の女性の死体を戦車に吊るして侵略をしたのがロシアです。
 

 
大東亜戦争終結後、1951年のサンフランシスコ講和条約で、日本は北方四島を除く千島列島と南樺太の領有権を放棄させられました。
 
しかし、同条約にはロシアへの領有権の移管については、只の一言も明記されていません。
 
また、ロシアはサンフランシスコ講和条約の調印国ではない為に、日本が放棄させられた千島列島と南樺太に帰属する国はありません。
 
千島列島と南樺太は、ロシアの領土とは認められていません。
 
ロシアは、1941年4月13日に調印された日ソ中立不可侵条約を、1941年7月7日の、関東軍特殊演習の日本側の挑発行為により、同条約は事実上の効力が消滅したと主張しています。
 
しかし、同条約には「有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるもの」とあります。
 
1945年4月5日にロシアは、翌年期限切れとなる同条約をソ連は延長しないことを日本に通達したのです。
 
この経緯でも分かるように、1945年8月9日の時点で同条約は破棄されていませんでした。
 
ロシアが主張する1945年2月の「ヤルタ会談」は、米・英・ロの三国による秘密会談です。
 
当事国の日本は参加していない事からも、国際法上拘束力を持つ条約ではありません。
 
国際社会で認められる会談ではないので、北方四島を含む「千島列島」と「南樺太」を、ロシアは不法占拠しています。
 
北方四島には、1945年8月15日の時点で、17,291人の日本人が住んでいました。
 
しかし、ロシアの不法侵略により北方領土の島民の生活は一変しました。
 
ロシアによる不法占拠後、厳しい監視の目をくぐって故郷の島々を脱出した人もいました。
 
しかし、多くの島民はそのまま抑留されて、樺太などで非常に苦しい生活を送りました。
 
1947年から1949年にかけて、日本人は強制的に引き揚げさせられた為に、現在、北方領土は日本の固有領土なのに、日本人は合法的に住めません。
 
すべてを失った祖父、母の背の娘 不法占領63年の色丹島 元島民語る
 
終戦後半月以上たった昭和20年9月1日、北方領土の色丹島に、当時のソ連軍が突然上陸し、島は占領された。元島民の得能宏さんが 北海道根室市 の自宅で、当時の出来事と故郷への思いを生々しく語った。
 
「父はアメリカが来ると言っていたので、まさかソ連が攻めてくるとは思いもしなかった」。8月15日の終戦から17日後、色丹島の北東、斜古丹(しゃこたん)湾にソ連軍の艦船が入ってきたのだ。
 
村役場や郵便局、捕鯨場(鯨の処理工場)などを次々と占拠。島にいた日本兵は武装解除のうえ、拘束された。数日後、島の特別警備隊長だった得能さんの父親も連行され、以来、数年間、行方が分からなくなった。
 
「やがてソ連兵は民家を没収し始めた。追い出された日本人は、知人の家や馬小屋、物置で暮らさねばならなくなった」。「完全な略奪。家族は湾の中ほどにある小さな小屋に移らざるを得なくなった」。
 
島を脱出する島民も相次いだ。残った島民は、没収された捕鯨場の保守点検やまき割りなど、さまざまな「下働き」をさせられた。
 
7月には、得能さんの祖父、源次郎さんが亡くなった。富山県から明治25年ころ色丹島に渡り、苦労の末にタラやカレイなどの漁場を開拓した。
 
「祖父は、一代で築いた漁業基地などすべてを、ソ連軍に取られて失意の中で他界した。野原に木を積んで祖父を火葬にした光景を今も覚えている」
 
「苦労に苦労を重ね、すべてを失った祖父の無念さを思うと辛い」。一生かかって色丹島に土台を築いたものの、家を奪われ、最期を粗末な小屋で迎えなければならなかった祖父。その悔しさに得能さんは思いをはせる。
 
「日本人は日本に帰す。一週間以内に荷物をまとめろ。ただし、持っていけるのは、手荷物だけだ」得能さん一家は昭和22年9月末、ソ連軍から強制送還の命令を受けた。
 
10月、ソ連の大型船が迎えに来た。桟橋からはしけで、沖に停泊していた船に向かった。「日本人は、荷物といっしょにモッコと呼ばれる大きな網に入れられ、つり上げられて貨物船の船倉に積まれた」。
 
船内は択捉島、国後島で乗せられた日本人で、すでにほぼいっぱいだった。得能さん一家は、母親、姉夫婦とその子供、弟と妹が一緒だった。
 
船は日本本土ではなく、ソ連が軍事侵攻した南樺太(現サハリン)に向かった。到着したのは真岡(まおか)(現ホルムスク)。樺太高等女学校に隣接する小学校の収容所に入れられた。収容所の生活は厳しいものだった。
 
「便所の壁板をはがして炊事用の燃料にするため、トイレが丸見え。若い女性は昼間、トイレをがまんするため、体調を崩す。子供や老人も栄養失調で病気になった。やがて、どんどんと死んでいった」
 
収容所の食べ物は、黒パンと水のようなスープ、そして、塩ニシンを生のまま食べさせられた。風呂にも入れず、洗濯もできない。米粒みたいに大きなシラミが体中にわいた。
 
「女学校に移ってからは、2階に上がり、海ばかり眺めていた。日本の船が入ってきては出てゆく。それは、自分らの順番が近づいていることを意味し、とても励みになった」船に乗ることができたのは12月。「家族を含め、乗船した皆が、ただ涙をこぼして喜んでいた」。
 
船は 北海道函館市 の函館桟橋に着いた。しかし、喜びもつかの間だった。姉の2歳になる娘が、姉の背中で死んでいたのだ。
 
「昔は、船の中で人が亡くなると、海に流して、水葬するしきたりがあった。しかし、姉はどうしても娘を日本に連れて帰りたかったので、娘が船の中で亡くなったのを母親にも言わなかった。函館の桟橋に着いて初めて娘の死を口にした」
(北方領土の島民が語る真実、ロシアの鬼畜行為を忘れてはいけない)抜粋
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/15579809.html
 
ロシアは日本領土に侵略して日本軍兵士を捕虜とし、シベリアを主体とするソ連領内に強制連行して強制労働をさせました。
 
厳寒のシベリアで満足な食事や休養も与えず、苛烈な強制労働で日本人抑留者が次々と死んでいきました。
 
ポツダム宣言は、武装解除した日本兵は復員できると保証をしていました。
 
しかし、共産主義国家建設のためにシベリアなどの開拓に労働力を必要としたロシアは、シベリア抑留により日本人を強制労働させて大虐殺しました。
 
ロシアの不法行為により、10年以上も過酷なシベリアに抑留にされた方々もいます。
 

 

 

 
 
ロシアは軍事力を背景にしては、これまでにも紛争相手国にロシアの国益を最大限に求めてきました。
 
相手国が弱腰となり、国際社会も問題視しなければ、ロシアは紛争相手国に求めた国益を得ているのです。
 
日本は、武力で奪われた領土は武力で奪い返す覚悟と、ロシアと対等な軍事力である核武装をして、領土返還交渉をすべきです。
 
ロシアは、日本人捕虜虐待(奴隷労働被害)というポツダム宣言違反や、強姦・虐殺・暴行・略奪という人道に反する罪などを、日本に対して謝罪すべきです。
 
日本の領土と領海で、日本の資源を盗み続けている、火事場泥棒のロシアとの友好はありません。
 
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近野滋之

Author:近野滋之
こんのしげゆき
Nationalist
1962年9月14日生まれ
東京都新宿区出身
財団法人日本遺族会会員
21世紀日本政経会議議長
少年教育を考える会理事
靖國神社崇敬奉賛会正会員

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