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良識ある日本国民の皆様には、北方領土の日はご存知だと考えます。
 
日本政府は、1981年(昭和56年)1月6日の閣議了解により、毎年2月7日(日魯通好条約調印日)を「北方領土の日」に制定しています。
 

 

 

 
 
当時、私は民族派の活動家として、政府が「北方領土の日」を制定する趣旨に賛成しました。
 
しかし、「日本が返還を求める領土は、北方四島含む全千島列島と南樺太にしろ」「2月7日の日露通行条約の日ではなく、8月9日の日ソ中立不可侵条約破棄の日にしろ」と、政府に抗議をしました。
 
私たち民族派の指す北方領土とは、政府見解の、国後・択捉・歯舞・色丹の北方四島だけではなくて、北方四島を含む「全千島列島」と「南樺太」です。
 
 

 
あの日本共産党でさえ、「全千島列島」を北方領土と主張しているのですから、日本政府は四島返還を主張しても、島は一つも戻りません。
 
1855年に日本とロシアは、「日ロ通好条約」(日露和親条約)を締結しました。
 
日ロ両国の国境は択捉島(えとろふとう)以南(南千島列島)を日本領、得撫島(うるっぷとう)以北(北千島列島)をロシア領として確定しました。
 
樺太には国境を定めずに、日ロ両国民雑居の地としました。
 

 
1875年に日本とロシアは、「千島・樺太交換条約」を締結しました。
 
日本は、国境が未確定だった樺太全島に対する領有権を放棄する代わりに、占守島(しゅむしゅとう)までの北千島列島の領有権を得ました。
 
これにより、「全千島列島」は日本の領土になりました。
 

 
1905年に日本とロシアは、「ポーツマス講和条約」を締結しました。
 
日本は、日ロ戦争の戦時賠償として、北緯50度以南の樺太を得ました。
 
これにより、「南樺太」は日本の領土になりました。
 

 
ロシア(旧ソ連)は、大東亜戦争の終結間近、1945年(昭和20年)8月9日に、日ソ中立不可侵条約(日ソ中立条約には相互不可侵の条文がある為)を一方的に破棄しました。
 
そして、ロシアが、日本の領土へ侵略を開始しました。
 

昭和20年8月8日付、日ソ中立不可侵条約を一方的に破棄した「ソ連の対日宣戦布告通知書」
 
ロシアの侵略はまさに鬼畜そのもので、民間人の大量虐殺や、強盗同然の強奪行為、日本人女子への集団強姦など、多くの日本人が犠牲となりました。
 
ロシアの不法な侵略で、日本人は悲惨な思いをさせられました。
 
夫と子供の前で、ロシア兵は日本人女性を集団強姦し、その裸体を切り裂き虐殺して、裸の女性の死体を戦車に吊るして侵略をしたのがロシアです。
 
 

 
 
8月15日に大東亜戦争が終結して、日本はポツダム宣言を受託しました。
 
3日後の8月18日、ロシアは千島列島への攻撃を開始して、9月には歴史上1度も他国の領土になったことがない「北方四島」も占領しました。
 
ポツダム宣言は、武装解除した日本兵は復員できると保証をしていました。
 
しかし、ロシアは日本領土に侵略して日本軍兵士を捕虜とし、シベリアを主体とする旧ソ連領内に強制連行して強制労働をさせました。
 
厳寒のシベリアで満足な食事や休養も与えず、苛烈な強制労働で日本人抑留者が次々と死んでいきました。
 
共産主義国家建設のために、シベリアなどの開拓に労働力を必要としたロシアは、シベリア抑留により日本人を強制労働させて大虐殺しました。
 
ロシアの不法行為により、10年以上も過酷なシベリアに抑留にされた方々もいます。
 
 

 

 

 
心支えた捨て犬「クロ」
帰還船追い氷海に…ともに日本へ



日本人抑留者を追って、日本にやって来たクロ。
1957年ごろ、玉有勇船長と再会した(玉有正明さん提供)

真っ黒な雌の子犬が、ハバロフスクの収容所にいた。名前は「クロ」。日本人抑留者たちが飼っていた。

 シベリアでの抑留生活も10年を過ぎたころ、野外の作業所に捨てられていたのを、だれかが拾ってきたらしい。抑留者たちはわずかな食事を少しずつ分け与えてかわいがった。

 当時は抑留者の処遇も徐々に改善され、日本から小包も届いた。井上平夫さん(84)(鳥取県八頭町)も、菓子などを与えては、クロの頭をなでた。

 「日本人にはなつくのに、ソ連兵を見るとけたたましくほえてね。まったく私らの心情をわかった、賢い犬だった」


11年間に及んだ過酷な抑留生活と、クロとの交流を
振り返る井上さん(鳥取県八頭町の自宅で)

「矯正労働25年」。ソ連の軍事法廷が1949年8月、井上さんに出した判決だ。気の遠くなるような年月を極寒のシベリアで働き、思想を「矯正」しなければならない。理由は、井上さんの軍歴にあった。陸軍中野学校を出た井上さんは、特殊任務、つまりスパイ活動に携わっていた。

 自分から望んだ任務ではないが、選ばれたからには国のために身をささげようと覚悟した。モンゴルの民族社会に溶け込み、ソ連軍の情報収集などを行った。終戦後、満州(現中国東北部)でソ連兵に捕まった。

 一般の抑留者とともに収容所を転々としたが、判決後は、奥地のタイシェト近くの囚人用収容所に入れられた。わずかな黒パンと塩汁だけで、来る日も来る日も鉄道工事に駆り出された。

50年4月、ソ連が「戦犯を除き、日本人抑留者は送還した」と発表した。戦犯とされた自分はまだシベリアにいる。日本で待つ母の落胆を思い、打ちひしがれた。

 その後、ハバロフスクに移され、クロに出会った。

 クロが球拾いをする野球大会は「クロ野球」と呼ばれ、抑留者の大きな楽しみだった。深夜、収容所の火事をクロが見つけ、事なきを得たという手柄話も残っている。

先の見えない抑留生活の中で、井上さんにとっても、クロは心の支えだった。昼間の作業を終え、くたくたになって帰ると、クロがしっぽを振って迎えてくれた。疲れが和らいだ。

 56年10月の日ソ共同宣言調印を機に、すべての抑留者の帰国が決まった。クロとの別れでもあった。

「クロだ! クロがいるぞ」。抑留者の一人が、岸壁を指さして叫んだ。

 56年12月24日朝。井上さんを含め、最後までシベリアにとどめ置かれた1025人の抑留者が、帰還船「興安丸」でナホトカの港を出航した。その直後、クロが氷の海に飛び込んだ。

 ハバロフスクからナホトカまで、約800キロ。だれかがこっそりクロを帰国列車に乗せたのか――。真相は分からないが、とにかく、クロはナホトカまで来ていた。

 「戻れクロ、死んでしまうぞ!」「岸に帰るんだ!」。抑留者たちは甲板で叫んだが、クロは割れた氷を渡り歩いて追ってくる。氷の間から海に落ちた。抑留者たちの悲鳴が上がった。

 何度も帰還船の航海をこなし、“引き揚げ者の父”と呼ばれた玉有(たまあり)勇船長が船を止めた。縄ばしごで下りた船員が、クロを抱き上げた。甲板に響く歓声。

クロはぶるっと体を震わせて、全身の氷を振り払い、しっぽをうれしそうに振った。みんな涙が止まらなかった。

 そのままクロも舞鶴港(京都府)に「帰還」した。近くの住民に引き取られ、数年後に生まれたクロの子は、玉有船長の家に贈られた。

船長は73年5月に66歳で亡くなったが、長男の正明さん(70)は「抑留者とクロの交流に父も心を打たれたのでしょう。もらった子犬はクロと同じく真っ黒で、おとなしい犬でした」と、振り返る。

 11年間に及んだ過酷な抑留体験だったが、井上さんは、クロの話をする時だけは、目を細めた。

「自分を救ってくれた日本人のことを、クロは命がけで追ってきた。互いに苦しかったからこそ、心が結びついた。つらく長かった日々の中で、そこだけが今も輝いているようです」
2005925 読売新聞
 
2002年にロシアが発行したサハリン州の切手には、樺太(ロシア名サハリン)と千島列島(ロシア名クリル諸島)が描かれています。
 
 

 
大東亜戦争終結後、1951年のサンフランシスコ講和条約で、日本は北方四島を除く千島列島と南樺太の領有権を放棄させられました。
 
 
しかし、同条約にはロシアへの領有権の移管については、只の一言も明記されていません。
 
また、ロシアはサンフランシスコ講和条約の調印国ではない為に、日本が放棄させられた千島列島と南樺太に帰属する国はありません。
 
千島列島と南樺太は、ロシアの領土とは認められていません。
 
 

 
ロシアは、1941年4月13日に調印された日ソ中立不可侵条約を、1941年7月7日の、関東軍特殊演習の日本側の挑発行為により、同条約は事実上の効力が消滅したと主張しています。
 
しかし、同条約には「有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるもの」とあります。
 
1945年4月5日にロシアは、翌年期限切れとなる同条約をソ連は延長しないことを日本に通達したのです。
 
この経緯でも分かるように、1945年8月9日の時点で同条約は破棄されていませんでした。
 
ロシアが主張する1945年2月の「ヤルタ会談」は、米・英・ロの三国による秘密会談です。
 
当事国の日本は参加していない事からも、国際法上拘束力を持つ条約ではありません。
 
ヤルタ協定は、戦後の処理方針を述べたに過ぎず、米国政府も1956年に公式見解として、この協定が領土を移転するような法律的見解を持つものではないと認めています。
 
国際社会で認められる会談ではないので、北方四島を含む「千島列島」と「南樺太」を、ロシアは不法占拠しています。
 
 

 
終戦直後、30万人余りの日本人が取り残された朝鮮半島北部で、現地を占領したソ連が、日本人の保護に応じなかったことを記した外交文書が新たに見つかりました。
 
この外交文書は2012年に、戦後の引き揚げを研究している国文学研究資料館の加藤聖文助教がスウェーデンで見つけたもので、1945年9月に作成されました。

大勢の日本人が死亡した状況を知るうえで、貴重な資料として注目されています。

当時、ソ連は日本の朝鮮半島北部を占領し、北緯38度線より南に人が移動するのを禁じたため、現地には30万人余りの日本人が取り残されました。
 
日本政府は、ソ連に保護するよう要請していました。

文書の中で、ソ連は日本の代理として交渉にあたったスウェーデンに対し「日本の地位は敗戦によって大きく変わった」として保護の要請に応じませんでした。
 
また、ソ連は「スウェーデンはアメリカに占領された日本の代理を果たす必要はない」と主張しています。

ロシアは、日ソ二国間条約を一方的に破棄し、戦後も日本へ侵略を続け、ポツダム宣言を遵守せず、邦人保護要請も拒否して、日本人大虐殺をした国です。
 
対中包囲網のために、ロシアと手を組むべきという意見もありますが、このようなロシアと手を組むのは危険です。
 
日本は、武力で奪われた領土は武力で奪い返す覚悟と、ロシアと対等な軍事力である核武装をして、領土返還交渉をするべきです。
 
日本はロシアに対して強硬外交をするべきで、日本の領土と領海で、日本の資源を盗み続けている火事場泥棒ロシアとの友好はありません。
 
良識ある日本国民の皆様、北方領土の日についてご考慮下さい。
 
強盗殺人国家ロシアから北方領土奪還!
 
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近野滋之

Author:近野滋之
こんのしげゆき
Nationalist
1962年9月14日生まれ
東京都新宿区出身
財団法人日本遺族会会員
21世紀日本政経会議議長
少年教育を考える会理事
靖國神社崇敬奉賛会正会員

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