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明治節を迎え、日本国民として心より慶祝を申し上げます。

11月3日は「文化の日」とされていますが、日本の正式呼称では「明治節」です。

11月3日は、明治天皇の御生誕日で、大東亜戦争終結までは「明治節」として、新年・紀元節・天長節とともに奉祝する日でした。



11月3日の「文化の日」は、なぜ「明治節」と呼ばれていたのですか?

昭和23年7月20日に祝日法が公布され、11月3日は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」の趣旨によって祝日「文化の日」となりました。実はこの日は明治天皇のお誕生日にあたり、戦前は明治節と呼ばれていたのです。

 はじめに明治の元号について説明します。元号とは年につける称号で、漢の武帝※1(紀元前159~87)の時代に「建元」と号したのにはじまり、日本でもこれに倣い西暦645年に「大化」と号したのが最初でした。しかし中国では中華民国の成立(1912年)とともに元号は途絶え、周辺諸国も諸王朝の滅亡とともに元号が廃止されてしまい、現在、元号が使用されているのは世界で日本だけとなっています。また明治以前までは元号が頻繁に変わっていましたが、たびたび改元されるのは好ましい伝統ではないと、江戸時代の学者たちから意見が出てくるようになりました。
 明治維新になり、岩倉具視はこれらの学者の意見を採用して、天皇一代の間は1つの元号にする制、つまり一世一元を制定したのです。そして明治の改元にあたっては学者の松平慶永※2がいくつか選び、それを慶応4年(明治元年)9月7日の夜、宮中賢所※3において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自らくじを引いて御選出されました。そして翌8日の一世一元の詔(みことのり)で「明治」と改元されたのです。

 さて、次に本題の明治節について説明します。11月3日は先ほども説明しましたように、明治天皇のお誕生日です。戦前までは天皇誕生日は「天長節」※4と呼ばれていました。ですから戦前も今と同じように祝祭日として天長節(天皇誕生日)はお祝いされていたのです。ところが明治45年7月30日、明治天皇が崩御※5され、大正天皇が践祚※6されますと、天長節は大正天皇のお誕生日の日にあらためられて、11月3日は普通の日になってしまったのです。 しかし国民から、明治天皇のご偉業を永遠に伝えていくためにも11月3日を祝日にしたいという運動が起きてきました。崩御直後の新聞には11月3日をどのように保存して行くべきか、アンケートを実施しているほどです(『国民新聞』大正元年8月13日~27日「11月3日を如何に保存すべき乎」)。そして、この中で圧倒的に多かったのが「明治節」の名称でありました。
 大正14年に11月3日を祝日に制定する請願運動が行われ、2万名の署名が議会に提出されて同年2月23日、満場一致で可決されたのですが、大正天皇の御病気が悪化していたので、貴族院での審議は中断してしまいました。審議が再開されたのは昭和の御代にはいってからで、昭和2年の3月3日、明治天皇の御聖徳を敬仰して「明治節」として制定されたのです。以来、明治節は国家の大切な行事とされ、「四大節」※7の一つに数えられ、また戦後になっても11月3日は「文化の日」としてお祝いされているのです。

 今ではもう日本にしか存在しない、しかも1300年以上も続いている元号の伝統と、近代日本の礎をお築きになられた明治天皇の御遺徳を偲ぶ意味でも、11月3日の明治節の精神を永久に子々孫々へ伝えていきたいものです。

※1武帝 前漢第七代皇帝。中央集権を強化し、儒教を採用して思想の統一を計り、漢の最盛期を現出した。即位の年を建元元年といい、年号のはじめとされる。
※2松平慶永 (1828~90)幕末の福井藩主。ペリー来航後、海防・攘夷を主張。徳川慶喜と協力して幕政改革・公武合体を進め藩政改革をおこなった。大政奉還・王政復古にあたっては公議政体派の中心人物として活躍した。
※3賢所 宮中三殿の一。天照大神の御霊代(みたましろ)として神鏡八咫鏡(やたのかがみ)を祀ってある所。
※4天長節 天皇誕生の祝日。明治元年制定。戦後、天皇誕生日と改称。ちなみに皇后誕生日は「地久節」と呼んだ。
※5崩御 天皇・太皇太后・皇太后・皇后の死去をいう語。
※6践祚 皇嗣が天皇の位を受け継ぐこと。先帝の崩御あるいは譲位による。
※7「四大節」 もと祝祭日とされた新年・紀元節(現在の建国記念日)・天長節(天皇誕生日)・明治節(文化の日)の総称。

明治神宮HP転載





韓国人は、明治天皇を「明治天皇は朝鮮を侵略し、韓国人に大きな被害をもたらした張本人である」「日帝侵略の元凶・明治日王」などと侮辱しています。

日韓併合までの時代背景を見ると、韓国の宗主国の「清」は改革に失敗し、ロシアが南下してきて朝鮮半島を脅かしていました。

大韓帝国(朝鮮半島)は、ロシアの支配下になるのは目に見えていました。

亡国の危機に大韓帝国はロシアと戦えず、大韓帝国は日韓併合により朝鮮民族の存続を行ったのです。

日清戦争で日本の勝利により清から独立ができた朝鮮は、日露戦争、韓国併合がなければ、ロシアの植民地となっていたでしょう。



日本国第122代天皇

大韓帝国初代皇帝「高宗」(李氏朝鮮第26代国王)

第2代皇帝「純宗」(李氏朝鮮第27代国王)


日露戦争で、白人諸国がロシアの勝利を予想したにもかかわらず、日本はロシアを打ち破りましたが、これは近現代史上初めて白人が有色人種に敗れたことでした。

インドの ジャワハルラル ・ ネール (後のインド首相)

小さな日本が大国ロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本が最も強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができて、どうしてそれが インドに出来ないといえようか。だから日本の勝利はアジアにとって偉大な救いであった。インドで我々が長い間捕らわれていた劣等感を取り除いてくれた





なぜ日露戦争に勝てたか


日露戦勝100年を迎えた。なぜ勝利できたのか。考えてみると実に不思議である。国力、軍事力はとても比較にならなかった。日本が欧米一方の雄ロシアと戦うことなど到底考えられない時代であった。日露戦争直前、駐日ロシア公使館の一武官は「日本軍が欧州のたとえ最弱小国に太刀打ちできるようになるまでには数十年おそらく百年はかかるであろう」と言っている。20世紀初頭帝国主義は極盛に至り欧米列強の有色人種支配は絶頂に達した。
彼らは非西洋民族を片端から侵略征服し余すところは東アジアのみとなった。欧米に抵抗、反撃しうる有色民族があろうはずはなかった。真正の独立国は日本を除き皆無であった。従って本来ならば日本の挑戦は決してあり得ず、わが国もまた植民地、属国として支配されて然るべき運命にあった。日本がロシアを打破ったことは非西洋における唯一の例外、近代世界史の奇蹟にほかならなかった。

なぜこれがあり得たのか。国力、軍事力からみるなら到底勝利しがたい強大国に打ち勝ちえた最大の理由は、一言を以てするなら日本民族の底力を十二分に発揮させたところの国民団結の核心たる明治天皇が存在したからである。明治天皇がおられたがゆえに乃木希典も東郷平八郎もあれほどの働きを成しえた。日露戦争の主役中の主役たる乃木・東郷の至上の貢献は明治天皇の絶大なるご信任の賜物であった。近代日本を代表すべき人物を唯一人あげるとするなら、それは明治天皇にほかならない。





【明治天皇と露西亜に関する推奨記事】

明治天皇のお話 明治天皇崩御から100年
ブログさくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」



大東亜戦争終結後の「極東国際軍事裁判」(東京裁判)とは、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くとの理不尽で、裁判との名を借りただけの、連合国による日本への復讐の儀式でした。

東京裁判で被告人の起訴は1946年4月29日、昭和天皇の御誕生日(天長節)に行われました。

そして、元A級戦犯の絞首刑判決の刑の執行は12月23日、当時、皇太子殿下の御誕生日(現在の天長節)に行われました。

1946年11月3日に「押し付け占領憲法」が公布され、1947年5月3日に施行されました。

当時の首相である吉田茂は、憲法制定のスケジュールを、当初は3月11日公布、2月11日の建国記念日(紀元節)に施行としていました。

しかし、その日程に間に合わなかったことから、11月3日の明治節に公布し、5月3日施行にしており、意図的にそれまでの四大節に日程を合わせました。

このように、戦勝国は戦後日本へ復讐を行いました。



【関連記事】

「押し付け占領憲法の施行日」

1890年(明治23年)10月30日、明治天皇より「教育勅語」(教育ニ關スル勅語)が下賜されました。

天皇の名において、教育理念と実践道徳との教育全般における基本理念を示した明治の教えです。

教育勅語には、「12徳」の教えが込められており、現在の日本が学ぶべきことです。


「教育勅語の12徳」
1. 孝行(こうこう)⇒子は親に孝養を尽くしましょう。
2. 友愛(ゆうあい)⇒兄弟姉妹は仲良くしましょう。
3. 夫婦の和(ふうふのわ)⇒夫婦はいつも仲むつまじくしましょう。
4. 朋友(ほうゆう)の信(しん)⇒友達はお互い信じ合ってつき合いましょう。
5. 謙遜(けんそん)⇒自分の言動を慎みましょう。
6. 博愛(はくあい)⇒広くすべての人に愛の手をさしのべましょう。
7. 修学習業(しゅうがくしゅうぎょう)⇒勉学に励み職業を身につけましょう。
8. 智能啓発(ちのうけいはつ)⇒知徳を養い才能を伸ばしましょう。
9. 徳器成就(とっきじょうじゅ)⇒人格の向上につとめましょう。
10. 公益世務(こうえきせいむ)⇒広く世に中の人々や社会の為になる仕事に励みましょう。
11. 遵法(そんぽう)⇒法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう。
12. 義勇(ぎゆう)⇒正しい勇気をもってお国の為に真心をつくしましょう。



大東亜戦争終結により米国など戦勝国は、日本の民主化との美名の下に、全ての戦前教育を悪としました。

GHQの占領政策により「教育勅語」は、1946年に「教育根本規範の廃止」「奉読の廃止」(勅語及び詔書等の取扱いについて)にされました。

1947年に「学校教育から排除」(旧教育基本法)、1948年に「排除・失効の確認」(衆議院の教育勅語等排除に関する決議・参議院の教育勅語等の失効確認に関する決議)がされました。

1948年6月19日に、教育勅語は廃止されました。

教育勅語とは日本人の教育の基本で、荒廃した教育の再生に必要なことですから、義務教育課程に戻すべきです。
日本は、「文化の日」ではなく「明治節」に戻すべきです。


ブログ「かつて日本は美しかった」転載

明治節

11月3日は明治天皇の在位中は天長節(天皇誕生日)でした。これは四大節(新年、紀元節、天長節、明治節)のひとつです。明治45年(1912年)に明治天皇が崩御になり、大正3年(1914年)には昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が崩御されたのをうけて、両陛下を鎮祭する明治神宮の御創建を熱望する声が国民の間におこりました。大正9年11月1日に代々木の地に御鎮座となり、明治神宮が創建されました。 それでも維新の大業を回顧する国民の思いはやまず、昭和2年(1927年)3月に、明治時代の天長節であった11月3日を明治節と制定することになりました。これをうけて宮中でも皇室祭祀令を改正し、明治節祭が制定されました。

しかし、この明治節は戦後「文化の日」に変えられ、明治節祭も廃止に追い込まれました。GHQの指令によるものです。明治の大業の歴史を国民から遠ざける目的でしょう。2月11日の紀元節祭も廃止に追い込まれています。これも日本人が自分の歴史を取り戻して主体性を回復させないためのものです。

明治節祭も紀元節祭も復活していません。しかし、昭和天皇は紀元節祭は「臨時御拝」という形で御親拝を続けられました。今上天皇も引き継がれています。明治節祭も「臨時御拝」として昭和62年まで続けられました。今上天皇は引き継いでおられないようですが、7月30日には明治天皇の崩御日で明治天皇例祭があり、この日に御追悼の情を表しておられるのだと思います。

明治節祭も紀元節祭も復活しないのは宮内庁の怠慢によるものでしょう。陛下のご高齢を理由に祭祀の簡略化の話がありますが、裏には悪意ある思想があると思います。「政教分離」と称して祭祀を皇室の私事として閉じ込めておきながら、その私事も簡略化させようとしています。何かと皇室から祭祀色を取り除こう、祭祀王の姿を隠そうとする動きがあるようです。本来は御公務のほうを重点的に削減すべきです。また皇太子殿下による代理、代拝を考えるべきでしょう。天皇陛下は祭祀王であり、祭祀があるから「天皇」というのです。

11月3日は「明治節」に戻し、明治節祭を復活させ、日本国民が近代日本の礎を築いたという偉大な明治大帝を偲び、宮中で祭祀が執り行われる日になることを切に願っています。




【告知】

明治神宮参拝

明治節である十一月三日(明治天皇お誕生の日)に明治神宮へ参拝致します。
明治神宮の鳥居前(JR原宿駅からすぐ)に午前十時集合、十時半に参拝に向かいます。
正装や和装、または派手でない服装でお越しください。
駅からはすぐですが、参道は少し距離があります。
主催 護国市民隊志士の会


第3回「明治の日」推進の集い 新保祐司「日本の正気と明治の精神」

【 日時】11月3日(祝)午後1時30分 開場 2時開会 4時閉会
【記念講演】新保祐司「日本の正気と明治の精神」
【場所】日本青年館中ホール 日本青年館ホテル地下1階
【入場料】無料
【主催】明治の日推進協議会


近代日本の礎をお築きになられた明治天皇の御遺徳を偲ぶ意味でも、11月3日の明治節の精神を永久に子々孫々へ伝えましょう。

慶祝・明治節!

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10月4日、フジテレビ開局55周年特別番組『池上彰緊急スペシャル!』が放送され、池上彰は「神道」「仏教」を中心にニュースと宗教の関係を解説しました。


日々ご訪問を頂いているブログ「メイド・イン・ジャパン!」転載


10月4日
フジテレビ
池上彰緊急スペシャル



全国で戦犯の釈放を求める署名活動が起こる

「一日も早く巣鴨を空に」

巣鴨には第二次世界大戦後、東京裁判の被告人とされた戦犯容疑者を収容した通称「巣鴨プリズン」があった
目標3000万人の署名に4000万人の署名が集まった


池上
「A級戦犯が合祀されていたことが明らかになって以来ここに参拝されなくなった方がいらっしゃいますこちらの方ですね


昭和天皇ですね
昭和天皇は戦後からですね、毎年という訳ではないんですが
靖国神社を参拝されていらっしゃったんですね
ところが、A級戦犯を合祀されていたという事がわかって以降、靖国神社を参拝されていなかったんですね
その理由は明らかではなかったんですが
2006年、こんな新聞記事が出ました
こちら、日経新聞の記事なんですが

昭和天皇が在位中に宮内庁長官だった富田朝彦氏が取っていた
昭和天皇との会話メモ、これが記事になっていましてね
そのメモの中で、昭和天皇は靖国神社参拝について
こう仰っていたと、書かれているんですね昭和天皇は1988年、靖国神社のA級戦犯合祀に強い不快感を示し
だから私はあれ以来参拝していない、それが私の心だ

と、こういう風に富田メモに書かれていた
だから、昭和天皇はA級戦犯が合祀されているから
靖国神社の参拝をとりやめられたのではないか、とこういう記事だというわけですね

この時既に富田元長官も亡くなられていたものですから
さぁ、本当の所はどうなのかというのは、分からない部分もあるんですが


前後に書かれている文章から見ても、非常に信憑性のあるメモではないか
という事で、当時大変話題になったというわけですねで、真相はどうであれ、A級戦犯合祀が明らかになって以来


昭和天皇は一度も靖国神社を参拝されないまま亡くなりましたし
今の天皇陛下も参拝されていない、という事なんですね


275 名無しでいいとも! sage 2013/10/04(金)
まーたこの話か、靖国批判でいつもこれ持ち出すんだ

343 名無しでいいとも! sage 2013/10/04(金)
これ続報ないよな・・・
それに勝手に陛下の御心を忖度するのはだめだろ・・・

348 名無しでいいとも! sage 2013/10/04(金)
これが池上流の世論誘導術や~

356 名無しでいいとも! sage 2013/10/04(金)

のちに信憑性が怪しいとされた

359 名無しでいいとも! 2013/10/04(金)
おいおい、あきらかになってないのに使うなよ

391 名無しでいいとも! 2013/10/04(金)
昭和天皇が参拝最後が75年
A級戦犯合祀78年
発覚79年
あれれ??

413 名無しでいいとも! sage 2013/10/04(金)
富田メモをいまさら紹介するとは思わなかった。めちゃくちゃ嘘くさいのに

481 名無しでいいとも! sage 2013/10/04(金)
崩御と言わずに亡くなるって言ったな・・・。


池上彰は、靖国神社に「A級戦犯合祀」と解説しましたが、事実ではありません。

すでに日本は、A級戦犯も含め戦犯とされた方々の名誉を回復しており、国内的にも国際的にも戦犯は存在せず、靖国神社にA級戦犯は合祀されていません。



【関連記事】

東条英機元首相ら元A級戦犯

いわゆるA級戦犯の靖国神社


池上彰は、昭和天皇が「A級戦犯合祀」により靖国神社に御親拝をされなくなったと世論誘導していますが、これも事実ではありません。

昭和天皇が靖国神社の御親拝を中断されたことは、元A級戦犯合祀が原因ではありません。

元A級戦犯(法務死者)は、1978年(昭和53年)の靖国神社秋季例大祭に合祀され、翌年の1979年4月に報道されました。

昭和天皇と香淳皇后が最後に靖国神社を御親拝されたのは、1975年(昭和50年)11月21日です。


元A級戦犯が合祀される前に、天皇陛下は靖国神社へ御親拝をされなくなっていました。

1975年8月15日、三木武夫首相が靖国神社に参拝しました。

三木首相は、公用車を使わず、肩書きを記帳せず、玉串料を公費から支払わず、閣僚らを同行しないことの4条件を以て、「私的参拝」だと表明しました。

このことを日本社会党の議員が国会で追及するなど、政治問題化しました。

そして、11月21日に昭和天皇・香淳皇后が靖国神社に御親拝されました。


この両陛下の御親拝の前日にも、両陛下の御親拝は私的行為か、公式行為かと国会で議論になりました。

11月20日の参議院内閣委員会で、日本社会党の野田哲、秦豊、矢田部理の3議員が質問に立って厳しく追及しました。

政府委員として答弁した富田朝彦・宮内庁次長(当時)は、天皇陛下の靖国神社御親拝は「私的行為」であると説明しました。

社会党議員からは、公的行為だとか私的行為だとかいった区別はできないのではないか、明日の天皇陛下の御親拝は、「(当時国会で議論されていた)天皇陛下や内閣総理大臣らの靖国神社『公式参拝』に道を開くものであって、『表敬法案』の先取りであり、『憲法20条』に違反する疑いがある、更に、あなた方によれば、私的行為の名のもとに天皇が靖国神社に参拝されるということは、どんな答弁、どんな強弁に接しようともわれわれは断じて認めるわけにはいかない」などといった厳しい批判が加えられました。

追求を受けた吉国一郎内閣法制局長官は遂に、天皇の参拝は、「憲法第20条第3項の重大な問題になるという考え方である」と答えてしまいました。

このような事情から、宮内庁としては天皇陛下の靖国神社御親拝が憲法違反とされたりすれば大変なことになり、また、国民統合の象徴である天皇が政治的に争いのある問題に関わられるべきではないと判断したと考えられます。

つまり、天皇陛下の靖国神社御親拝は、憲法解釈など政治問題となることを避けるために中断されています。

池上彰は、『富田メモ』を「非常に信憑性のあるメモ」と解説しましたが、これも事実ではありません。

2006年7月20日、日本経済新聞は朝刊第1面トップで「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感」という見出しで『富田メモ』を報道しました、

『富田メモ』の最重要部分、靖国神社についてのお言葉は、1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモにありました。


私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私あれ以来参拝していない それが私の心だ


これは、昭和天皇のお言葉ではなく、元侍従長の徳川義寛が常々話していたことです。

例えば、「私あれ以来参拝していない」という「参拝」ですが、天皇とは天照大神の子孫で、葦原中国(日本国土)において最も上位の神です。

位が上であられる天皇陛下が、神社に出向く場合は「参拝」ではなく「行幸」で、「御親拝(参拝)」は侍従らの言い方です。

つまり、昭和天皇が靖国神社に「参拝」とのお言葉を口にすることは実際にはあり得ないのです。

それに、『富田メモ』によれば、「昭和天皇はA級戦犯に対して不快感をもっておられたらしい」ということになります。

しかし、昭和天皇も今上天皇も元A級戦犯の追悼をされています。

昭和天皇は、1978年に元A級戦犯が靖国神社に合祀された後も毎年、靖国神社の春秋の例大祭には勅使を欠かすことなく差し遣され、元A級戦犯が合祀されている社に奉幣を行われていました。

毎年8月15日、天皇・皇后両陛下をお迎えして、日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が行われています。


この追悼対象には、A級戦犯とされた方々も含まれているので、昭和天皇も今上天皇も元A級戦犯の追悼をされています。

元A級戦犯の靖国神社合祀自体に問題があれば、天皇陛下は靖国神社への勅使差遣も、皇族のご参拝も、全国戦没者追悼式へのご臨席もやめられたはずです。

愛知県三ヶ根山の頂上に、東條英機大将ら元A級戦犯の墓地建設が決まり、昭和35年に「殉国七士廟」が完成しました。


【関連記事】

七烈士の遺骨を入手し「殉国七士廟」まで辛苦があった


昭和天皇は、昭和54年5月に「殉国七士廟」に、間接的ながらもご親拝されたことがあるそうです。



「昭和天皇の墓参り」

昭和54年5月26日、昭和天皇・皇后両陛下は翌日に愛知県藤岡町で開催される第30回全国植樹祭にご出席されるため、三ヶ根山の高台に建つグリーンホテルにご宿泊されたそうです。しかし、植樹祭にご出席されるには、式典会場からは非常に遠い不便な場所だったといいます。このホテルに御宿泊されたのは陛下の強い御内意によるそうです。
 
 但し、このホテルは高台にあり、東京裁判で処刑された七人の殉国七士廟が一望できる場所でした。植樹祭の当日、早朝六時頃、責任ある方が陛下をご案内しようと部屋に入ったところ、両陛下はこの殉国七士墓の墓碑と戦友の記念碑にお向かいになられて17-18分近く不動のままに佇立されていたといいます。

 若狭氏はこれを「昭和天皇の墓参り」と称しているそうですが、その年の11月8日にも美智子妃殿下と礼宮が同じようにされたといいます。さらに今上天皇も平成の時代になって12月23日のお誕生日、実はこの日に処刑が執行された日ですが、この殉国七士墓に毎年お使者をよせてお墓詣りを欠かさないそうです。
ブログ花うさぎの「世界は腹黒い」転載



つまり、池上彰のいう『富田メモ』が「非常に信憑性のあるメモ」は嘘であり、昭和天皇が元A級戦犯に対して不快感をもっていたとの印象操作です。

これまでにも、池上彰はテレビ番組の解説で、視聴者に対して印象操作や世論誘導をしています。

2012年12月9日にテレビ朝日は、『そうだったのか!池上彰の学べるニュース“総選挙直前 緊急解説SP”』を放送しました。

池上彰は、韓国与党セヌリ党の朴槿恵候補を「朴槿恵氏は日本に友好的」と、野党民主統合党の文在寅候補を「文在演氏は反日」と解説しました。


しかし、大統領選で朴槿恵候補は反日発言を続けていました。

2012年12月4日、韓国大統領選で、朴槿恵候補と文在寅候補らは初のテレビ討論を行いました。

朴槿恵は、日韓関係改善のためには、「日本は正しい歴史認識が必要だ!」と発言しました。


▼大統領になった朴槿恵

【関連記事】

池上彰が参院選について


池上彰の解説は「なるほど」と納得できることもありますが、菅首相がラーメン屋でラーメンを食べたことを称賛するなど世論誘導もしています。

池上彰は真実を解説しろ!



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プロフィール

近野滋之

Author:近野滋之
こんのしげゆき
Nationalist
1962年9月14日生まれ
東京都新宿区出身
財団法人日本遺族会会員
21世紀日本政経会議議長
少年教育を考える会理事
靖國神社崇敬奉賛会正会員

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